全国裏探訪取材班は、福岡県の久留米市に来ている。久留米と言えば明治期より、旧大日本帝国陸軍の師団が駐留。日清戦争後には第12師団が編成、その後、第18師団も編成され、主に2期編成され、第1次編成は日露戦争終結後1907年(明治40年)編成。第2次編成は日中戦争勃発した直後1937年(昭和12年)に編成された。
そんな軍都である久留米には、現在競輪場がある。そこの敷地はかつて陸軍の「久留米陸軍墓地」が設置されており、主に第12師団の墓地として成り立っていたようだ。
そういえば、熱心な読者ならば久留米の墓地の話と言えば、既にここの「隈山墓地」の記事はご覧いただけたと思う。そう、ここはあの無縁墓だらけの隈山墓地と隣接しているエリアだ。
「忠霊塔」
当然陸軍軍人の墓なので、戦死した英霊を顕彰すべく忠霊塔を建てられている。
これはかなり巨大だな、恐れく15mほどはありそうだ。素材はう~ん。花崗岩だろうか。
下は納骨か何かをする空間だろうか。かなり堅牢な造りだな。
「忠霊塔の由来 この忠霊塔には、福岡、佐賀、長崎、熊本 大分、沖縄等各県に亘る、旧久留米市団管区関係戦没陸海空軍人軍属の英霊五千四十八柱の分骨を祀る。 一、塔の高さ十七米「忠霊塔」の文字は渡辺 中将の揮毫である。 二、昭和十四年七月着工 二年九ヶ月の歳月二十五万円の巨費延べ 十一万二千名の銃後赤誠の勤労奉仕によ り完成した。三、昭和十六年四月十日完成 酒井久留米市団長、志岐奉賛会長、本間 福岡、生税住佐賀両県知事が祭主となり 石橋久留米市長始め関係者八千余の参加 を得て竣工式及び鎮魂式が盛大に執り 行われた。 四、建設奉賛会長志岐豊中将、久留米在郷軍 人連合分会長高柳常一中佐、畑瀬安太郎 中尉並びに直接工事の指導に献身された 中山岩吉工兵大尉の奮斗は銃後赤誠の奉 仕とともに特筆すべき業績である。 忠魂永久に眠るこの丘に尊い犠牲を偲び いつまでもいつまでもその武勲を称えま しょう。」
取材班が書く乱文乱筆とは大違いだ、純日本語と言うような文法と言葉が羅列されるな。うんうん、着工が1939年(昭和14年)で完成まで2年9か月を要し、25万円!も費用が掛かったらしい。
その当時なら大卒の初任給は100円だから今20万としてざっくり約1000倍。25万円×1000だから今でいう2億5000万円か。すげーな。当然当時は日中戦争の真っ最中だったので、一般国民も“銃後”と表現されてんな。今なら、軍靴の足音ガーーとプロ市民や地球市民の連中が発狂しそうだなw
さて、この忠霊塔なのだが、上写真の出入口の柵は実は久留米競輪の敷地の柵で通常は閉鎖されているので中には入れない。碑文に“武勲を称えましょう”という割には普通に中に入れない。戦没者の慰霊もできないとは・・英霊が草葉の陰で泣いてるな。
忠霊塔前の道は参道になっているようで、灯篭などもあったな。 次回は他の旧帝国陸軍墓地施設を見に行こうか。
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(2019)