全国裏探訪取材班は、熱心な読者りょり室蘭取材のタレコミがあったので現地に来ている。ここは終戦直前に「室蘭艦砲射撃」を受けたのだが、当時ここに築かれた「室蘭臨時要塞」の戦いぶりはどのようなものなのだったのだろうか。
「室蘭臨時要塞 小橋内砲台」
さて、砲台を再度見ていこう。ここは現在においても原型を保ち王子の雰囲気を今に残す。
ここは終戦後数十年の長い期間、住居用として供用されていたらしく、中にはパーテーションらしきものが見て取れる。
被り厚が2メートルほどありそうな壁に窓のようなものが空いている。ここに96式15センチカノン砲と10センチカノン砲が設置されていたと言うが。
ただよく見るとこの砲台、射界の方角が北の室蘭港と西の噴火湾に向けてのみ砲撃できるような構造になっているのがわかる。とすると、米艦隊が東から来ると攻撃はできない。
「室蘭の位置関係」
「当時のイメージ図」
で、当時の様子はこのような格好になることが推察される。まず、米艦隊は室蘭より東南の海上から進出してきた。そして、登別沖から艦砲射撃を開始した。この地図を見ると、米艦隊と砲台の射界の位置関係から全く応戦ができなかったのがお分かりいただけると思う。
「実際の攻撃の図面」
そう、実はこの室蘭臨時要塞は終戦間近突貫工事によって作られたのだが、米艦隊の艦砲射撃に対し為す術もなく沈黙していたのだと言う。
「測量山」
その室蘭臨時要塞の遺構は室蘭を見下ろす測量山の頂上にもある。測量山がは標高約199mで室蘭港や噴火湾まで360度が一望できる。
「要塞付属観測所跡」〈42°19’18.1″N 140°57’29.2″E〉
当然当時は、この要塞付属観測所にも多数の日本軍が詰めて敵艦隊を睨んでいたのだろうが、正確無比の米艦隊からの艦砲射撃に指を咥えてみているしかなかったのだろう。敵の攻撃を見据えて対策していたのだろうが全ては徒労に終わってしまった。
敵を観測していたであろうこの監視窓も現在はコンクリートによって埋められている。
そして、よく見ると、上下二段に監視窓があるのがお分かりいただけるだろうか。室蘭艦砲射撃の推移とその事実を知ると、当時の将兵の無力さが今にも伝わってくる。
現在も遺構の端々には鉄筋が剥き出しになっているところが見て取れる。
結局この「室蘭艦砲射撃」で「室蘭臨時要塞」は戦うことなく終了。重工業で大いに栄た室蘭は完全に灰燼に帰し、大多数の民間人を含め約1,000名以上の死傷者を出して幕を閉じた。もちろんこれは米軍による非人道的な作戦に違いないが、日本側は準備をしていながら一矢すら報えなかった情けない戦いでもあった。そんな歴史的事実を忘れないためにも今回はいい取材となったと思う。
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(2021)