【豊後崩れ】と言われた「隠れキリシタン」の墓を見る【バテレン追放令】(1)

全国裏探訪取材班は、大分県由布市に来ている。熱心な読者からの情報提供により、由布院という全国有数の温泉街に足を踏み入れた。ここには昔大友宗麟が支配していたのだが、隠れキリシタンの墓が眠っているらしくその墓を調査しにきた。

由布院と言えば全国でも有名な観光スポットなのだが、一般的な話をすると、高級旅館にはお忍びで楽しむ観光地としても立地がよく、九州の主要な空港である福岡空港から約1時間半程度。ここから高速で30分程度走れば、日本一の湯量を誇る別府市も近い。

場所は自衛隊基地である。「由布院駐屯地」の裏側に位置するのだが、このあたりお寺が非常に少ない。やはりキリシタンが多かった証拠か。

ちなみに標識など何もなく、この真ん中の道を通って行くのだが、周辺に人も歩いていないほどの片田舎である。今回の墓はキリストの禁教期であるため、目立った場所に墓を作れない事情もあったのだろう。まぁだから隠れキリシタンなんですけど。

先程の場所から5分程歩いてくると、ようやく看板が見えてきた。ぱっと見ると日本式の墓のように見えるのだが、一体どうなっているのか。

「由布院(峯先)のキリシタン墓群」

天正8年つまり1580年から布教がこの地に始まったようだ。そこから「バテレン追放令」が天正15年だが、当時はこういったお上からの伝達は遅かったので、1614年に宗門改めという言わゆるキリシタン排他の命令が下されているので、ほぼ隠れキリシタンの時期が長かったようだ。

これがキリシタンの墓になるのだが、今の時代とは違って整列していないし、地面の土が痩せて倒れかけている墓もある。ただ隠れキリシタンの信仰の最大の肝となるのは”カクレ”であるのであって、当たり前だが簡単にわかってしまっては意味がない。だから彼らはこうした。

そう、溝を刻むことにした。こうやって十字を切っているようで切っていない方法や、小さく十字を切ったり、何かの方法ではわかるが、知らない人には全くわからない方法で密かに弔い、先祖を敬った。言われればそうだと思えるが、実際には言われなければただの溝を掘った石でしかない。

真ん中は綺麗に四角にくり抜かれている。隠れキリシタン達は祈りの時はもちろんキリスト方式での祈りを捧げたわけだが、ここに何かを入れ十字架を完成させたのだろうか?それとも、木製の十字架を差していた。との説もあるよう。ただ、こういったことは文献に残っていないため今となっては確認しようがない。

 

これも資料によると、隠れキリシタンの墓らしい。400年近く経過した今では場所がまともにわからない墓も数多くあり、そういった墓はまとめられているものの、日本本来の墓石の墓とは明らかに異なっている。ちなみに右側の墓も禁教期の墓であるものの、墓に関しては特段宗教的な差別は受けていなかったようにも思える。もしくは墓自体を気づけなかったか。

キリシタンの墓の近くにある仏式の墓である。おわかりいただけるだろうか。この墓は江戸時代に作られた墓らしいのだが、戒名が妙に短い。「尼」と記載があるのでおよそ女性なのだが、どうもこの墓の主は3歳でこの世を去ったのである。何が理由で去ったのかは不明だが、3歳の子の墓を別で作るということは何か大切な思い入れがあったのかもしれん。さて次回に続きます。

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(2021)