【B級】国道10号線沿い「ドライブイン薩摩隼人」「戦史館」に突入する!【戦史博物館】(3)

全国裏探訪取材班は、霧島市国道10号線にある「ドライブイン薩摩隼人」に来ている。前回からオーナーに案内されえるがまま「軍人会館」と書かれた物件に潜入しているわけだ。今回もそこんとこの続きから見て行こう。

「2階 軍国会館」

雰囲気はあからさまな電波物件。そして、名前は軍国会館と言ういかにも頭おかしい極右のオーナーが居るのかと思うが、書いてあることはココココのように意味不明支離滅裂ではないので勘違いしないように。多少クドイ所もあるがちゃんとした方が運営されています。w

「九二式 重機関銃」

この軍人会館のハイライトと言えば何と言ってもこの重機関銃。1932年(昭和7年)に開発され当時の歴である、皇紀(神武天皇即位紀元)2592年の下二桁から九二式重機関銃と名付けられた。

戦後進駐軍により、多くの軍刀や拳銃などの兵器が没収されたというがこの重機関銃はある軍人が自宅の庭に埋め隠していた物なのだという。これはすごいな。

この重機関銃は大日本帝国陸軍が運用し、支那事変から、ノモンハン事件そして対米戦争との全線戦で利用された。元々日本軍は三年式機関銃と言う口径6.5㎜の機関銃を利用していたが、後年威力不足となりこの7.7㎜の九二式重機関銃が開発された。

基本的な開発は元の三年式機関銃を踏襲し設計したのだが、元々堅牢堅固な三年式機関銃の構造が優秀だったこともありこの九二式重機関銃に於いても素晴らしい命中精度と遠距離の破壊力があった。難点と言えば発射速度が数えられるほど遅かった点だという、しかしそのかわり、射撃持続性能が高くオーバーヒートはしにくかったようだ。

「三八式歩兵銃」

他に銃火器で行けば日本軍の主力小銃、三八式歩兵銃も展示されていた。この重はボルトアクション方式小銃で有効射程は460m。命名は明治38年(1905年)に採用されたからだ。明治から数々の実践を経て終戦まで使われた。

鉄鉢(てっぱち)もこの通り。往時のままいい感じに錆が回っている。陸軍の物だろうか正面に星の意匠が付いている。

 

こちらには軍刀が置かれている陸軍の物だろうか。当時の日本軍の物なのは確かだというが、持ち主当詳細は不明なのだという。

「将軍暁に死す」

「海軍用地」

「大日本國防婦人會」

教科書や資料でしか見たことのない物件があちこちにある。これなんかもそう着物を着た夫人がこのタスキを肩に掛け、日の丸の手に持って振っているイメージ。

 

出征兵士の見送りや留守家族の支援、負傷兵の出迎えや、兵営の身の回りの世話まで「国防は台所から」とのスローガンで女も駆り出された総力戦をしていた証拠だな。銃後の守りというわけだ。

「山本五十六大将 南洲神社参拝時 鹿児島市上竜尾町国防婦人会一同 昭和11年11月」

山本五十六自体の写真はたくさん残っているが、ここは鹿児島。この写真は西南戦争の薩軍の戦死者を祀る南洲神社を山本が訪れた時の物だという。昭和11年11月だと山本は海軍中将、航空本部長だった時代か。

もしかすると山本はこの時、鹿児島の錦江湾を見てハワイの真珠湾に近い地形から、真珠湾への奇襲攻撃の構想を練り始めたのかもしれんな。現に錦江湾は水深が浅く真珠湾に似ており、真珠湾攻撃直前までここ錦江湾で魚雷攻撃などの猛特訓をしてたみたいだし・・

「ドライブイン薩摩隼人」はまだまだ続きますよ。次回は「戦史館」の方へと進攻していこう。

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(2020)