【沖縄県民】沖縄戦の司令部「海軍司令部壕」【斯ク戦ヘリ】(5)

 

全国裏探訪取材班は、沖縄戦の海軍司令部「海軍司令部壕」に入っている。壕内はジットリと湿っており、30分ほど滞在すれば取材班のポケットに入っているレシートが湿気で柔らかくなっていた。壕内で暗い・湿っている・狭い。それだけで心霊スポット認定されそうだ。

壕内の壁には鍾乳洞のようなものまであったりかなり不気味な感じだな。敵に囲まれ、こんな所に閉じ込められたら気が狂いそうだな。

壕内を廻っていくと、こんな感じの出入り口を発見。生存者の話によると、米軍に包囲された後は一日に数回米軍にむけ歩兵による突撃が行われていた。無論、戦車も備えた完全装備の米軍に太刀打ちできるはずもなかった。

6月時点では重火器はほぼ残されておらず、この出入り口から五月雨式に米軍に向け白兵突撃を繰り返していたのだそうだが、いずれも全滅に近かったらしい。

「司令官室」

そして、取材班が最後に訪れたのは司令官室だ。広さ的には15㎡くらいだろうか。中央にテーブルと椅子が備え付けられており当時の様子が再現されていた。

「神州不滅」

「大君の御はたのもとに死してこそ人と生まれし甲斐ぞありけり」

旧海軍司令部壕の司令官室には、大田司令官の愛唱歌が鮮やかに残されてた。現代語訳では「天皇の為に死ぬことができれば、人として生まれてきた甲斐がある。」になるのだろうか。現代では考えられない思想だが、当時はこういった思想が蔓延していたのか。

司令部壕が完全に包囲されてからは白兵突撃で抵抗していたが、最終的に大田司令官は6日夕方に辞世の句と共に内地に訣別の電報を打った。

「信号室」

そしてその日の夜午後8時16分、大田実司令官が多田武雄海軍次官宛てに発信した電報がかの有名な“沖縄県民斯ク戦ヘリ 県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ”と言う言葉で結ばれる沖縄県民の敢闘の様子を訴えた電文だった。

折角なので、現代語訳を全文掲載しよう。

“沖縄県民の実情に関して、権限上は県知事が報告すべき事項であるが、県はすでに通信手段を失っており、第32軍司令部もまたそのような余裕はないと思われる。県知事から海軍司令部宛に依頼があったわけではないが、現状をこのまま見過ごすことはとてもできないので、知事に代わって緊急にお知らせ申し上げる。
沖縄本島に敵が攻撃を開始して以降、陸海軍は防衛戦に専念し、県民のことに関してはほとんど顧みることができなかった。にも関わらず、私が知る限り、県民は青年・壮年が全員残らず防衛召集に進んで応募した。残された老人・子供・女は頼る者がなくなったため自分達だけで、しかも相次ぐ敵の砲爆撃に家屋と財産を全て焼かれてしまってただ着の身着のままで、軍の作戦の邪魔にならないような場所の狭い防空壕に避難し、辛うじて砲爆撃を避けつつも風雨に曝されながら窮乏した生活に甘んじ続けている。
しかも若い女性は率先して軍に身を捧げ、看護婦や炊事婦はもちろん、砲弾運び、挺身斬り込み隊にすら申し出る者までいる。
どうせ敵が来たら、老人子供は殺されるだろうし、女は敵の領土に連れ去られて毒牙にかけられるのだろうからと、生きながらに離別を決意し、娘を軍営の門のところに捨てる親もある。
看護婦に至っては、軍の移動の際に衛生兵が置き去りにした頼れる者のない重傷者の看護を続けている。その様子は非常に真面目で、とても一時の感情に駆られただけとは思えない。
さらに、軍の作戦が大きく変わると、その夜の内に遥かに遠く離れた地域へ移転することを命じられ、輸送手段を持たない人達は文句も言わず雨の中を歩いて移動している。
つまるところ、陸海軍の部隊が沖縄に進駐して以来、終始一貫して勤労奉仕や物資節約を強要されたにもかかわらず、(一部に悪評が無いわけではないが、)ただひたすら日本人としてのご奉公の念を胸に抱きつつ、遂に‥‥(???)与えることがないまま、沖縄島はこの戦闘の結末と運命を共にして草木の一本も残らないほどの焦土と化そうとしている。
食糧はもう6月一杯しかもたない状況であるという。
沖縄県民はこのように戦い抜いた。
県民に対し、後程、特別のご配慮を頂きたくお願いする。

この電文には決別の電文の常套句だった、天皇陛下万歳や皇国ノ弥栄ヲ祈ルなどと言う言葉は無く特に珍しいものだ。

その後も抵抗し続けたが、米軍は11日午前7時、司令部壕に総攻撃を加え司令部壕は大困難に陥った。11日夜に司令部壕から内地への最終報告として海軍根拠地隊が全滅したとの電報が送られた。

6月13日、大田実司令官は、幹部らと共に海軍司令部壕内で拳銃によって自決した。享年満54歳だった。

そして、戦後は長く放置されていたらしいが、1953年(昭和28年)生き残った元海軍兵がこの海軍司令部壕に訪れた。その時の様子は、入り口は大きく崩壊し内部は水浸しになっていたという。

調査の結果、海軍司令部壕内には大田司令官を初め約800名の遺骨が収容された。その後1958年(昭和33年)に更に約1500名の遺骨が収集され、総計2,300名以上がここで戦死したことになる。壮絶だな。ここまで来れば心霊スポットと言うよりは完全な霊スポットだ。

現在は海軍慰霊之塔も建立され、海軍司令部壕周辺の小禄地区は住宅街に変遷している。沖縄でリゾート気分もいいが“裏”の歴史も頭の片隅に入れておいた方がいいのかもしれん。

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(2020)