【第七十連隊御用達】丹波篠山あの“阿部定”が在籍した遊郭「京口新地」の「大正楼」【解体寸前の伝説妓楼】(1)

全国裏探訪取材班は、兵庫県篠山市に来ている。兵庫県と言えば五港の一つである神戸を擁するお洒落でハイソなイメージをお持ちかもしれないが、兵庫県というのはかなり広く、南部は瀬戸内海。さらに淡路島も兵庫県なので、紀淡海峡を挟んで太平洋とも接続。そして北部は日本海にも面する。気候も南北で全然違ったりと広大で意外とバリエーションが豊富な県だ。

「篠山城」

篠山はそんな兵庫県の中央部に位置し、京阪神と北近畿・山陰を結ぶ交通の要衝であり中世には八上城が築かれ、その後は徳川家康によって新たに、篠山城も築城された。

そんな場所なのだが、現代は猪肉のボタン鍋や黒豆などが有名になり、デカンショ節でも有名な所になっている。多くの関西人にとっては“丹波篠山”で通じるスポットだな。

今では、デカンショ節にあやかり「デカンショうどん」なるものも登場。“一度は食べよう”と妙に押し売り臭い感じになっていたり。まぁそんなかんじ。

城下町も割に整備されており、旧役場はこんな感じで、あくまで作られたレトロを演出。あんまり裏探取材班は興味がない。

そんなことより、この丹波篠山には近代、1908年(明治41年) 帝国陸軍歩兵第七十連隊がに設置された。

「歩兵第七十聯隊跡」

この陸軍歩兵第七十連隊は“丹波の鬼連隊”と恐れられた部隊で、現在の篠山警察署の北に約35ヘクタールもの広大な敷地にて猛訓練をしていた。規模は約1000人、明治期から大東亜戦争終戦まで約40年弱に渡って10万人の将兵がこの営門を通った。

篠山城本丸から見た、歩兵第七十連隊の兵営の方面。背後には盃ケ岳や多紀連山が聳える。

丹波の鬼連隊と恐れられたのはこの背後の山やそれを使った野戦訓練が相当激しいものだったという。取材班が地元民に聞いたところ昼夜実戦さながらの猛特訓をしており爆音もしていた。と証言していた。

 

旧営内は今でも工場の寮や行政の施設になっている。ここにかつては同じように兵営などがあったと思われる。

「みんなで創ろう!福祉のこころが息づく健やかな社会」

今はこのような生ぬるいスローガンになっているが、当時は“撃ちてし止まむ”などと掲げられていたのであろうか。

「この記念碑を 文化財として 大切にいたしませう」

支那事変・日中戦争以降は戦況が泥沼化。損耗率の高さから第七十連隊、第百七十連隊、第二百十六連隊、中部第六十八連隊、中部第百十連隊と部隊名が変化。日本を守ったのは彼らだが今は負の歴史としてこのような有様だ。

少し話は逸れてしまったがこの背景があって、今回の「京口遊郭」につながる。こんなけ兵隊がいる軍都ならば当然、軍の慰安施設などが必要になる。わかりやすい構図だな。さて次回はやっと本題の場所へと進もう。

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(2019)