【これぞ】大分の埋もれる潜伏キリシタン関連遺産〈切支丹洞窟礼拝堂跡〉【裏探訪】(7)

全国裏探訪取材班は、先ほどの久戸(くど)稲荷に続いて、同じ竹田市の武家屋敷の奥に隠すように存在する「切支丹洞窟礼拝堂跡」にやってきた。ここは1617年(元和3年)に出された幕府による禁教令後に建てられた礼拝堂のようだ。

武家屋敷が並ぶ通りを奥に進み、山の尾根が狭まってくる。

「キリシタン洞窟礼拝堂跡」の看板が見えてきた。ここが入り口となる。

山に向かって歩いてゆく。ぐるりと回って礼拝堂の方に向かう下には、なにやら井戸か湧き水のようなものがある。

普通に見れば単なる湧水を利用した洗い場にしか見えないが、ここはキリシタン礼拝堂。ここは、穢れを祓うための“聖水”となる。なるほどな。

上部の礼拝堂前に到着。

「洞窟礼拝堂」の入り口部分。開口した部分は進入できないよう、格子で覆われている。ここが彫られて400年が経つので長崎の教会群などよりももっと古く、現存するものにおいては日本最古のものではないだろうか。中も見て行こう。

「洞窟礼拝堂内部」

内部の完全な5角形の意匠が特徴的な、ゴシック様式にような祭壇がある。当時のイエズス会の方針は日本国内における教会は全て西洋式で建てるように各宣教師に厳命していたようだ。禁教令下でこのように大胆に建設できたのは、やはり岡藩の支援が大きいのだろう。現にこの礼拝堂を監視するための見張り所も5か所ほどあった。

礼拝堂右にある「横穴洞窟」

「日本切支丹宗門史」や「日本西教史」によると、岡藩主中川久盛公の家老古田重治はこの洞窟に密かにカトリックの神父らを匿ていたという。その中には大坂の陣で豊臣と共に籠城していた者も居た。当然中川家は徳川方であったが、キリシタンのため敵味方を超え、合戦後も匿い続けたようだ。現に禁教令下でさえ竹田では1万人を超える信者がいた。

 

「赤松稲荷神社」

切支丹洞窟礼拝堂跡入口の向かいにある稲荷神社。建立された時期は分からないが、幕府の監視役などの気をそらすためにあえて逆側に作ったのかもしれない。しらんけどw

一応取材班もお参りをする。キリスト教と神道が道を挟んでごった煮というのもすごいな。今になって思うと、このお稲荷さんは結構ズタボロだったな。キリストVS神道だったらこの地ではキリストが今でも勝つのか!?市民のほとんどが隠れキリシタンだったりして・・想像は尽きない。

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(2018)