【熊本の】「八代」の旧赤線地帯と河童伝説。【第二都市】(6)

 

全国裏探訪取材班は、引き続き熊本の第二都市である「八代」を取材している。

現在取材班は、赤色の星の位置まで歩いてきた。ここは前回説明した、薩摩街道の要衝や河童伝説の地の他に、安土桃山時代からの貿易の港「徳渕の津」として栄えた一面もある。

現在の「徳渕の津」と奥の「麦島」

南側対岸には前川(球磨川支流)を挟み、麦島が見える。麦島の奥には、球磨川(本流)が流れており島と言うより中洲と言ったところか。麦島には当時肥後国(熊本県)の南半分を治めた小西行長がより内陸の古麓城を廃城とし、水利の良いこの中洲に麦島城を築城した。

「徳淵の津跡」

そして麦島城の北側にあるこの徳渕の津は、貿易拠点として豊臣秀吉の直轄地とした。もちろん貿易港としてだけでなく水軍の拠点としても利用されていたようだ。
ちなみに名前の由来であるが、徳渕の“徳”は財宝を意味するようで、貿易拠点として船が集まる“津”=港として日本有数の港だったらしい。豊臣秀吉の九州征伐時肥後国一の人口5万人と言うのも頷けるな。地味にすごい(笑)

「徳淵の津 案内板」

仁徳天皇時代西暦300年代には9,000匹もの河童上陸伝説があり、1435年(永享7年)からは朝鮮遣使として大陸との交易が始まり、安土桃山時代(1573年頃~)には本格的の貿易が始まり、球磨川中洲には麦島が築城。江戸時代(1603年~)に入ってからも薩摩街道が整備され交通の要衝になったりしていた。歴史の表舞台を堂々と飾っているのである。

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現在の「徳渕の津」

しかし、江戸期に入って間もなく1619年(元和5年)に大地震で麦島城が壊滅し廃城となった。海上交易の拠点も博多に徐々に移行してゆき、さらに明治に入ると鹿児島本線が開通し薩摩街道は急速に衰退してしまった。歴史の“表”舞台であるこの地も、現在は何もなかったかのような無機質なコンクリート岸壁に置き換わり全国“裏”探訪で紹介している。ここも栄枯盛衰か。

徳淵の津、前川橋前には謎の西洋風の建物が。

この建物も例に漏れず、土手の上より建物2階にアクセスできるようになっている。屋根は和風だが、建物の随所の意匠は西洋風だ。これが旧遊郭時代と関係があるのかは分からない。

玄関欄干にも西洋風の意匠がある。何か銘板があるかと探したが、分からなかった。

 

西側はトタンが張られ雑な処理だったが、柱の上にはなにかのシグネチャーの跡がある。謎は深まるばかり。

何れにせよ、何か特殊な施設だったことは確かだ。写真は紺屋町(赤線地帯)側の一階部分。シャッターが閉まっている。ますます怪しい。当時の若い衆が「お!向こうにもなんかあるぞ!行ってみよう!」と言っていたに違いない。

取材班はこの謎の建物と、土手の間を西進する。

結果的に何の施設かはわからなかったわけだが、何か知っている諸君にはタレコミをお願いしたい。

 

前川橋には2つ並行して掛けられており、新前川橋の所まで来ると、ここにも謎の店舗跡。スナックか何かかもしれないが、入り口が3つある。

2階には広告募集の看板。その下には「トーク&トーク リンリンCLUB レディース専用 0965-32-7899 *法律により18歳未満のご利用は固くお断りします。」

トーク&トーク リンリン CLUB レディース とか怪しさ満点の言葉が目立つが、電話番号も市外局番からの番号。こんな物いまどき需要あるのか?w

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(2018)