全国裏探訪取材班は、軍都久留米に来ている。ここにはその象徴として「久留米陸軍墓地」もあったり、軍都にふさわしいものもあるな。
今は普通の汚い池にしか見えないが、これはおそらく水景施設。今でいう空間デザインの噴水みたいなもんか。
当然その上には重厚な橋がかけられている。結構年代もんだな。
欄干橋の親柱には何か書かれている。
「陸軍橋」
そのまんまの名前だな。ただ、現代日本には陸上自衛隊はあるが“陸軍”はない。しかも、銘板に“陸軍”と付くものはほぼ見かけない。この銘板は結構貴重だな。
「昭和十七年四月竣功」
忠霊塔の着工が1939年(昭和14年)で完成は2年9か月後なので昭和17年完成か。と言うことは、この陸軍橋も忠霊塔も完成時期を合わせたことになるな。昭和17年初頭なら真珠湾攻撃も成功し破竹の快進撃で、国内が盛り上がってた時期だ。毎夜のちょうちん行列で浮かれていたのだろうか。
「ドイツ兵俘虜慰霊碑」
陸軍では当時、捕虜を“俘虜(ふりょ)”と言っていたようだ。
これは日本式の墓標に見えるが、刻まれているのは専らローマ字。しかもドイツ語でかかれている。
これは第一次世界大戦、日本が参戦した際当時は敵陣営だったドイツのいわゆる捕虜の墓だ。1914年(大正3年)中国青島のドイツ要塞を日本軍が攻略。青島の戦い日本は勝利し捕虜を獲得した。ドイツ人捕虜は約4000人強居り、全国各地の俘虜収容所に収容された。捕虜の待遇はハーグ陸戦条約の捕虜に準拠して行われ、この捕虜規定が最初に適用された事案でもあった。
1319人の収容期間中11人が亡くなり、それを祀るために建てられた。石碑裏には、ドイツ語にて「運命の力により剣を奪われ、捕らわれの人となり、黄泉の国に去った汝ら」「故郷はるか遠く逝った同志たちの思い出のために」と書かれている。
捕虜は非常に人道的に扱われ、時には第三国アメリカなどの視察も受け環境改善が図られ、労働の自由や久留米市民との交流も図られ非常に友好的だったという。今日本文化に根付いているドイツ文化、例えばお菓子のユーハイムやハムソーセージのローマイヤは捕虜が解かれた後、日本に残った元捕虜が創業したのは有名な話だよな。当時は敵国だったにも関わらず、その後の日独の華々しい交流は皆さんご存知の通り。どっかの半島の奴らとは大違いだな。
話が少しずれてしまった・・気を取り直して「久留米円形野外劇場」を探しに行こうとするか。
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(2019)