【唐津炭田】「三菱古賀山炭鉱」の跡を探る。【近代日本遺産】(4)

全国裏探訪取材班は、佐賀県多久市の駅周辺にある通称唐津丹田。「三菱古賀山炭鉱」を調査しにきた。ここの鉱山は既に閉山から50年以上が経過し、鉱山の面影がわずかながら残っており、当時の建物を改築や増設することで再利用する光景が見られた。

実は「多久駅」周辺にも唐津線へ石炭を輸送するための「ホッパー」跡が残っていた。ホッパーとは石炭や石や砂利などを貨物列車に効率良く運ぶ為の貯蔵設備である。

これがホッパーなのだが、ほとんど鉄道の横や島で石炭が取れ、船で運ぶケースでは海岸の近くに設置されていることが多く、効率良く運ぶ観点から円錐形などの形をしたものが多い。鉱山版のサイロのようなものだと思ってもらうといい。

こちらも残念なことなのか幸いなことなのか建設会社の私有地内に存在していた。1階部分は資材がおいてあるものの、状態としては私有地ということもあって比較的に残っている。

今では建設会社の物置として利用されているようだ。たくさんの廃材や保管されているであろう資材が見える。

石炭の採掘の歴史には欠かせないのが石炭を運ぶ輸送手段である。陸地での輸送は大量輸送を可能にする列車が多いが、島から島外への輸送であれば、例えば長崎県の西海市西側に浮かぶ池島タンカーのような船での輸送が多い。

ここでの炭鉱を管理していたのは「肥前の炭鉱王」として知られる「高取伊好」である。佐賀藩の武士として生まれ、長崎県の高島炭鉱をはじめ、唐津の炭鉱開発を行った。

炭鉱開発はご存じの通り困難が非常に多かった。当時は「黒いダイヤ」ともてはやされたが、炭鉱を掘削する設備投資、そして輸送する輸送費に従業員を住まわせる人件費と当時は現代のようなオートメーションがなかったので、膨大な費用がかかった。

それだけではない。陸地の輸送はもっぱら列車なので、インフラを整えなければ黒いダイヤを持ち運ぶことすらできない。また今でいう3Kといった職種の性質であることから筑豊の炭鉱のように昔は荒くれ者は非常に多かった。無論行政組織の手の届きにくい争いごとや身内のこじれを取りまとめる用心棒のような治安を維持するための組織も存在し、彼らにもそのお金が流れていた。

 

そのため、初期投資だけではなく、鉱山を維持していくためにも莫大なお金がかかったのである。ただデメリットだけではなく、地域に人の流れと巨大な金と人の流れが生まれ、町は多いに潤った。

だが、どの町にも言えるが、石炭で栄えた町は石炭以外の産業の強みがないもしくは非常に弱い。だからエネルギー革命以降、石炭の需要が急減少して大量に離職し、現地に炭鉱労働者の仕事がないから町から出ていかがざる負えなくなり、人口流出するのである。それにしてもズタボロだなぁ。

人が町から消えていくと、当たり前だが税収は減るため、限界集落など高齢化の集落になるだけではなく、その地域で醸成されてきた貴重な文化や風習・歴史まで消えていく。

少子高齢化とAIなど世界的な産業の変革によって、これからこのような町は日本中に増加するだろう。日本の未来は決して明るくない。産業が強くなり子供が今生まれてベビーラッシュが仮に到来したとしても、人口が増加するのは20年後である。この現実はを受けとめ、この町や文化風習できごとから何を読みとりどう活かすか。それは読者次第である。どのリスクを負って、次の変革に備え残された時間をどう使うか。それがこの町から学べるリスクマネージメントだ。

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(2021)