【第七十連隊御用達】丹波篠山あの“阿部定”が在籍した遊郭「京口新地」の「大正楼」【解体寸前の伝説妓楼】(2)

全国裏探訪取材班は、関西人からは“丹波篠山”でおなじみの兵庫県篠山市に来ている。軍都として知られるこの篠山にも例外なく軍の慰安所という文字通り“色”の強い「京口新地」という遊郭が設置された。場所は篠山城から南東に1Kmほどの場所だ。

県道306号線沿いに京口新地はある。

ここは陸軍第七十連隊が設置された3年後である1911年(明治44年)に設置されそれから約50年ほど経った1958年(昭和33年)の売春防止法施行まで商いが続けられた。

「港住宅」

元遊郭という場所柄、土地が激安なのか、このような公営住宅が蔓延っているプアマンズエリア。

ずいぶんと安普請の公営住宅だが今でも超高齢者が住んでいるようだった。裏探訪取材班をじっと遠くからみられていた(監視していた)。

遊郭区画が近づくと徐々にそれらしい町並みに変化。場所はホームセンターコーナンから県道を挟んだエリアと非常にわかりやすいのですぐにわかると思う。

篠山市街地方面から見ると、いかにもここからが“結界”と言わんばかりに、用水路が・・そうです、このコーナンがある県道308号線とこの用水路の間が遊郭区間。幅はそうだな100mくらいか。至って狭いエリアにある。

この結界の外側にはソレを中和し清めるかのように小さな社もある。  

「大正楼」

用水路を渡るとすぐにありましたよ。例の遊郭が。ここは大正楼と言いかの有名な阿部定が娼妓として最後に籍を置いた場所だ。

阿部定というとこいうった遊郭とかに興味がない一般人でも知っている歴史上に語り継がれる女性だよな。

阿部定は、1905年(明治38年)東京は神田に生まれ、17歳で芸者になった阿部定は無類の男好きとして、男どもからは売れっ子となり、22歳の時自ら遊女となる。

大正楼の玄関横の壁には今でも瓢箪柄の意匠などが往時のまま残っている。

最初は大阪西成の飛田新地の高級遊郭「御園楼」に前借金2800円で父との連判で借り受けた。事実上身内に売られたような格好だな。  

それから阿部定は、関西や名古屋の遊郭を転々と転籍。最後1931年(昭和6年)に在籍したのがこの下等遊郭である「大正楼」だ。当時の源氏名は“いくよ”や“おかる”と名乗っていたそうだ。

こんな客層の悪い遊郭での処遇はかなり悪かったらしく、阿部定は半年でここから逃走。これを最後に娼妓から足を洗おうとするのだが、長年この世界に染まった体の垢を落とすことが出来ず精神疾患も患ってしまう。それ以降の顛末はご存知の通り。これ以上書くとまた脱線してしまいそうなので詳しくはこちら・・

そんな阿部定事件なんて戦前のとっくに歴史の中に埋もれた話かと思っていたのだが、未だにその大正楼がその証拠品のように完全な状態で残っている所に驚きを隠せない。

ただそんな重要物件も臭い物に蓋をする化のように「空家等対策の推進に関する特別措置法」に基づき歴史から消し去られようとしている。この標識を見る限りその措置期限は平成31年1月11日。すでに期限が超過している。  

次回はその大正楼を中心に、京口遊郭をじっくり観察していこうと思う。

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