【地元名士と】佐賀の遊郭「室園遊郭」とはどういうところだったのか。【巡る!】(2)

全国裏探訪取材班は、佐賀市内に来ている。まぁ、SAGA佐賀~♪っていう学会員の歌にもあるように結構なマイナー県なんですけど、そんなマイナー県でも県庁所在地なんで一応遊郭があるんですよね。さて今回も「室園遊郭」を見ていきましょうかね。

「室園橋」

さて取材班は、旧遊郭と外界を架ける室園橋を渡り結界内に入って行く。この水路はかつて嘆きの水路とか言われていたんですかね。

佐賀の遊郭は室園遊郭以前は市内の上芦町(現高木町)というところにあったのだが、1883年(明治16年)に上芦町の遊郭は風紀上廃止された。その後1889年(明治22年)に現在の今宿町に移転された。

現在の室園遊郭の町割りは当時のままのようで、比較的大きな敷地割りになっていることが上空から見てもよくわかる。

1930年(昭和5年)に発刊された全国遊郭案内にも当然記述がある。「佐賀遊郭 は佐賀縣佐賀郡北川副村に在つて、九州線佐賀驛で下車すれば東南約二十五六丁の處である。驛からは乘合自動車を利用して、水ケ江町で下車すれば宜しい。(続)」確かに現在も佐賀駅と現在地の位置関係は正しいようだ。ただ、廃線となった佐賀線のは翌1931年(昭和5年)なので全国遊郭案内には記述がない。

「元佐賀の市内に宿場として存在したものであつたが、縣令に依つて現場の遊廓に移轉したものである。佐賀市は縣廳の所在地で、人口約五萬、鍋島氏の舊城市で龍造寺氏の築城した名城であった。然し殘念な事には、明治七年後藤新平の所謂佐賀の亂の兵火に罹り、今は僅に城門のみが昔の名殘りを留めて居る。(続)」

「現在貸座敷が十七軒あるが、三玉樓と三浦屋の二軒が目下休業中である。娼妓は全部で百三十八人働らいて居る。娼妓の中には二枚鑑札の者も居るので、客の好みに依つては廓外に呼ぶ事も出来る。店は陰店式で寫眞は出して無い。(続)」

「娼妓は居稼ぎ制で送り込み制では無い。一人一客で絶對に廻しは取らない。御定りは一泊酒肴附きで六圓五十銭であるが、一二時間位の遊興なら三圓七十銭位である。藝妓の玉代は一時間一圓(一本二十五銭が四本)の割である。娼妓は主に九州地方の女が多い。(続)」

 

「今宿町1」

今回は資産家の地元名士K氏と来たんですけど、このK氏のの年齢は65歳。赤線廃止の1956年(昭和31年)に生まれたのだが物心ついたころはまだケバイ女がたくさんいたのだという。なるほどな。

なるほど、17軒の妓楼に130人の娼妓がいたのか。それなりの規模だったわけだが、すでに妓楼は皆無のようだ。この路地を北側に行くと遊郭を出るような格好か。

北側へと歩き進めていくとこっちにも小橋があるな。これが室園遊郭の北側の境界か。この石橋の親柱にも屋号の記載があるようだ。

次回、全国遊郭案内の屋号と橋に刻まれる屋号を突き合わせて「室園遊郭」を見ていきましょうかね。

#ズタボロ #マニアック #ヤクザ #レトロ #公団住宅 #団地 #廃墟 #放置プレイ #歴史 #空撮 #路地裏 #貧困 #赤線 #遊郭 #鉄道 #廃線

(2020)