全国裏探訪取材班は、全8回で「津山事件」を追ってるんですけど、ついにそれも最終回となった。この最終回では都井睦雄がどの様な最期を遂げたのかも語っていこうかと思う。
取材班は、前回に続き貝尾集落の墓参りを決行。昭和13年5月21日の墓石を探しているんですけど、おや、これはそうですかね。確かに、昭和十三年五月二十一日と書かれている。これはやはり津山事件の被害者だろうな。
「昭和十三年五月二十一日 行年二十才」「行年十八才」
さて別の場所から他の墓をご覧いただこう。いかがだろうか。2つの墓が並んでいるがどちらも、昭和十三年五月二十一日と刻まれているのがお分かりいただけるだろう。もうこれは偶然とは言えない。そう、もちろんこれは津山事件の被害者の墓だ。
さてこの墓も見て行こうか。この中央の墓を見ていただきたい。少し見ずらいかもしれないが墓石の右には昭和十三年五月二十一日と縦に書かれているのがお分かりいただけるだろうか。
で、この墓なのだが、このように雑多にまとめられている。この都井睦雄の一連の襲撃によって一家が全員死に一晩のうちに無縁になってしまった一家もあったという。
ブローニング銃によって殺された遺体の損傷は激しく、正直検死に訪れた人員も不足したらしい。あと余りの殺害された人数の多さから、実行犯は一人ではなく複数人居るのではないかと言う憶測が広まり、岡山県警から空前の1000人規模の捜査体制が敷かれた。
勿論、生き残った当事者家族もその後いわゆるPTSDのような症状になったり、親を殺された子供は不良になったり、自殺を選んだりまともな人生が送れた者は少なかったという。
それに伴ってか小さな集落なので、大きな寺院があるわけではないのだが、現在はこのように色んな仏像が祀られて居たり。これも津山事件に関連するもんですかね。
11軒に押し入り襲撃を終えた都井睦雄は、岡本和夫宅から500mほど離れた青山集落の武本市松宅に立ち寄った。ここでは市松と言う老人とその孫敦夫が居た。襲撃を終えた睦雄は書き上げた居た遺書の他に追伸があった為、この宅に紙と鉛筆を求めたのだった。
都井睦雄は紙と鉛筆を求めたが、隣の部落の為電気は通っていたので明るく睦雄の異様な様子が照らされ、市松は怯え果て探すのに手こずっていた。すると、孫の敦夫がすぐに勉強用のノートの切れ端と鉛筆を差し出した。睦雄はこの敦夫に対し「あっちゃん」「勉強して偉くなれよ」と声を掛けその場を後にした。
都井睦雄の姿を見たのはここで最後だったという。睦雄はこの青山部落から津山市街に抜ける荒坂峠へと最後の歩みを進んで行くことになる。峠に到着すると更に山頂を目指し進んで行った。
〈GoogleMapより〉
山頂付近には「仙の城」という場所があり、その場所はかつて美作改政一揆を展開した貝尾集落出身の仁木直吉郎ががその発起をした場所だという。地域の義民であり英雄と自分を重ね合わせたのだろうか。
「都井睦雄 遺書」
貝尾集落を眼下に、遠くは自分の出生地である倉見も見渡せるこの地で都井睦雄は最後に先ほど手に入れた紙と鉛筆で遺書を書き上げた。その内容はこうだ。少し長くなるが全文を掲載しよう。
“愈愈(いよいよ)死するにあたり一筆書置申します、決行するにはしたが、うつべきをうたずうたいでもよいものをうった、時のはずみで、ああ祖母にはすみませぬ、まことにすまぬ、二歳のときからの育ての祖母、祖母は殺してはいけないのだけれど、後に残る不びんを考えてついああした事をおこなった、楽に死ねる様と思ったらあまりみじめなことをした、まことにすみません、涙、涙、ただすまぬ涙がでるばかり、姉さんにもすまぬ、はなはだすみません、ゆるしてください、つまらぬ弟でした、この様なことをしたから決してはかをして下されなくてもよろしい、野にくされれば本望である、病気四年間の社会の冷胆、圧迫にはまことに泣いた、親族が少く愛と言うものの僕の身にとって少いにも泣いた、社会もすこしみよりのないもの結核患者に同情すべきだ、実際弱いのにはこりた、今度は強い強い人に生まれてこよう、実際僕も不幸な人生だった、今度は幸福に生まれてこよう。
思う様にはゆかなかった、今日決行を思いついたのは、僕と以前関係があった寺元ゆり子が貝尾に来たから、又西山良子も来たからである、しかし寺元ゆり子は逃がした、又寺元倉一と言う奴、実際あれを生かしたのは情けない、ああ言うものは此の世からほうむるべきだ、あいつは金があるからと言って未亡人でたつものばかりねらって貝尾でも彼とかんけいせぬと言うものはほとんどいない、岸本順一もえい密猟ばかり、土地でも人気が悪い、彼等の如きも此の世からほうむるべきだ。
もはや夜明けも近づいた、死にましょう。”
都井睦雄は最後ブローニング銃口を自分の心臓に突き当て、足で引鉄を引き自決した。遺書の内容はまず、討たずも良かった本家のじいさんや祖母への思いから始まり、事前に認めた遺書には無かった寺井ゆり子が殺意の発端だった点、またその他に、結核だった自分への迫害についても言及されていた。
さていかがだっただろうか。興味のある方はこの「津山事件」をもっと詳しく調べてほしい。当時の風習だった「夜這い」の実態や詳しいこともわかるだろう。そして、当時の日本の狭い集落では近親婚や近所での肉体関係、極端に流動性のない“ムラ”社会だ。病気や、家柄、資産状況、風貌など少しでも“普通”と違うと相当な陰湿な嫌がらせやイジメなどの村八分に遭ってしまう。
あなたの今置かれている職場や、人間関係でも、そんな二ホン人の闇は無いだろうか。もしそんな状況であれば、タレコミ、内部告発をこちらまでお寄せください。全国裏探訪総力を挙げ糾弾します。
あ、あとまた今度、都井睦雄の墓参りにでも行きましょうかね。
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(2020)