【二ホン人の闇】三十人殺しの「津山事件」の「貝尾集落」を訪ねる【は今も続く】(1)

全国裏探訪取材班は、岡山の山奥に来ましたよ。岡山と言えば教育県として有名な県なんで、ソープとかも無かったりまぁ健全な県とされて居るんですけど、所詮は地方なんですよね。今回は、その岡山県の第三位の都市である津山市に来たんですけどいかせん山奥すぎるんですよね。

そんな、津山市から車で30分ほど離れた現場に足を運びますよ。実は教育県と言いながら日本最恐の殺人事件が起きた現場でもあるんですよね。

その事件の名称は「津山事件」と言われており、他には「津山三十人殺し」とか犯人名前を取って「都井睦雄事件」などとも言われている。

「都井睦雄」

ざっとした事件の概要はこうだ。犯人の都井睦雄が寝静まった集落をひと晩のうちに襲い30人を殺害した事件。これだけ見ると相当犯人が残虐だったように感じるかもしれないが、犯人はいたって優しい好青年だったという人物も居るくらいだ。一体何があったのだろうか。

取材班はさっそく現場へと向かう。津山事件の貝尾集落は因美線の美作加茂駅から徒歩で約1時間強ぐらい。麓の加茂地区はこんな感じだ。

貝尾集落への道すがら取材班の一人が、空気も読まず地元民に「津山事件ってどこであったんですか」とストレートに問うたのだが地元民は「津山事件?わからん・・」との返事だったらしい。

問うた取材班は、地元民のその図星な表情から、何かを隠したような様子だと読み取った。そもそも、ここで30人もの被害者を出した「津山事件」をしらないことは無いだろう。完全にタブーなんだなw

まぁ、そんなタブーに挑むのが全国裏探訪だし、今後も空気を読むつもりもないので悪しからず。さて、この犯人の都井睦雄のプロフィールから紐解いていこうか。都井睦雄は1917年(大正6年)3月5日に少し離れた、岡山県苫田郡加茂村大字倉見(現津山市)と言う所で生まれたという。

 

可哀そうなことに都井睦雄は両親を3歳までに無くした。原因は肺結核だった。当時結核は不治の病とか死病と言われており、明治時代には国民病とまで言われていた。

その為、都井睦雄は6歳の時、祖母と姉で祖母の生まれの郷である貝尾集落へと引っ越していった。都井睦雄は学業などは優秀だったが、生まれつき体がそこまで強くはなく肋膜炎を患っていたようで、当時の農村で行われていた農作業が出来なかった。

とはいえ都井家はある程度資産もあったので、彼はそこまで苦労することもなく生活を送ることが出来たという。ただ、一般人なら農作業などに従事しないと生活できない当時、彼のそんなのどかな生活を、よく思っていない人間も居たようだ。

これが、日本人的な妬み嫉みだろうか。仕事をしていないのに悠々と生活をしているそんな彼にジェラシーでもあったのか、それとも自分も農作業するからお前もしろ!と言う日本人的集団心理が働いていたんだろうか。

実は検証していくうちに、そんな陰湿な日本人の特性が都井睦雄本人に影響していっていたことが分かった。次回はいよいよ事件現場「貝尾集落」へと入っていきましょうか。

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(2020)