全国裏探訪取材班は、福岡に来ていますよ。福岡といえば博多ラーメンとか明太子とかそんなものにしか目が行かないのは、単なる観光客に行かせておいて取材班はもっとマニアックなスポットに行きますよ。福岡県といえばDEEPな町も多いんですけど、その殆どは軍隊か工場か炭鉱がかつての繁栄の源なんですけど、今回もそんな男臭いスポットに目を向けていますよ。
取材班は福岡空港に到着しそこから路線バスに乗る事15分ほど。志免町と言う福岡市から見て東側のベッドタウンに来た。ここに今回の目的地が。
「志免鉄道公園」
今だから、バスでしかアクセスできない志免地区だが、かつて国鉄時代は「勝田線」と言う路線もあった。路線は博多駅の隣吉塚駅から筑前勝田駅まで至る路線だった。
勝田線は1918年(大正7年)に開業し他路線だ。勿論この路線はかつて志免町や宇美町あたりにあった「粕谷炭田」から産出する石炭を輸送するために作られた路線に他ならない。
「志免駅跡」
その後粕谷炭田は1963年(昭和38年)に閉山。その後20年ほど維持されたが、そんな路線も国鉄民営化前の1985年(昭和60年)に全線が廃止された。完全にかつての姿を消したと思われるこの志免地区だが、未だここには往時の炭田の規模を語り継ぐ施設が残っている。
その施設とは今回のレポの対象「旧志免鉱業所竪坑櫓」だ。この物件は粕谷炭田の一角を占めた志免鉱業所(志免炭鉱)の巨大な遺構だ。
現在、旧志免鉱業所竪坑櫓は修理工事のため、下部がテントで覆われている。これは2018年(平成30年)~2021年(令和3年)10月まで行われることになっている。
「旧志免鉱業所竪坑櫓」〔Wikipediaより〕
ちなみに覆いが無い時の旧志免鉱業所竪坑櫓はこんな感じ。この存在感いかがだろうか。この旧志免鉱業所竪坑櫓は大東亜戦争で対米開戦をした1941年(昭和16年)に着工し、完成したのが2年後の1943年(昭和18年)だ。
まずはこの志免鉱業所(志免炭鉱)の歴史からざっくりつ説明していこうか。この志免鉱業所は1889年(明治22年)の海軍採炭所(新原採炭所)から始まった。当時の海軍の艦艇の燃料は主に石炭が用いられていた都合から当時から海軍主体で開発を進められることになる。
その後、海軍の軍縮条約からも撤退。対米開戦を控えることになり採炭所の能力増強も急務になり対米開戦直前から着工が始まった。こことかもそうだけど九州ってかなり日本の運命に関わった施設があるよな。
「未来へ つなぐ、 まちの 記憶」
ちなみに戦前から現在まで残っている竪坑は世界でも数多くなく、ここ志免の竪坑のほかベルギーのブレニーと中国撫順の3か所にしか無いと言う。そんなレアな物件も現在は改装中で近づく事ができないので、次回は空撮で上まで昇って見て行きましょうか。次回もお楽しみに。
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(2019)