全国裏探訪取材班は、宮崎県「寒川集落」に来ている。さて今回も集落内部を見て行きましょうかね。この集落は400年の歴史があるというくらいだけあって、集落自体の縄張りはそれなりに規模がある。
集落に入ってからは崩れてしまった民家しか見なかったが、一番奥にあるこちらの物件は、まだしっかり家屋自体の原形を保っていた。
屋根はさすがに雑草が広がっており、かなり厳しい状態なのだが・・
家屋内に関しては、この通りまだ躯体がしっかりしているように見える。まぁ、ズタボロには違いないが・・
この地に人が住み始めて約400年。その中で最も人口が多かったのは明治期から高度経済成長期にかけてだった。
「三財村」
明治時代中期に入り落ち着きを見せた、1889年(明治22年)にはこの集落にも市町村制に移行し児湯郡三財村の一部になったこの寒川集落。この家屋の軒下にも当時の行政区分である「三財村」のプレートが貼られている。
素材が違うからか、名前の札は既に錆びて表記文字を読み取ることができない。何組の家族がここで暮らしたのか。
一部の記録には、明治以降約40-50世帯、200人強がこの寒川集落で生活を営んでいたという。この廃墟にもその生活の痕跡を今に伝える。
ここには囲炉裏か何かがあった跡があるが、今は無残な姿を残すのみ。
「ポニー 美容室」
土間の隅にあった、棚と思しきところには今だに液体のりが放置されっぱなしだったり。美容室の粗品だろうか、棚にはフックも取り付けられていたり。
こちらは、裁縫セットか何かだろうか。あちこちに生活の痕跡が残っていますね。
この集落は40世帯ほどあったというが、そんな規模も高度経済成長の減退と共に徐々に人口が急激に減少し限界集落化していった。主な要因は住人の高齢化だ。1989年(昭和64年)には寒川集落の平均年齢は70歳を超えた。
ここに住む世帯も、同年には6世帯13人まで激減。上下水道の維持や前述の交通路の整備などがままならなくなる。
自家用車の所有率30%と生活水準も低く、買い物や緊急時の人員輸送などもできず、これ以上集落としての機能を維持する事が出来なくなりった。最終的に集落の維持のためのインフラのコストが平均値を大幅に上回ってしまう。
その為、ここに住む住人たちはこれ以上ここで住むことを断念する事になった。
ここに住む住人はどうなってしまうのか。次回この続きを見て行きます。
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(2019)