全国裏探訪取材班は、前回まで延岡で新地と言われた「岡富遊郭跡」に来ている。今まだに戦後の赤線の名残を残す雰囲気が漂う町だったのだが、実はこの界隈の街並みも結構渋かったりするので、最後日が沈むまで歩き回った。
取材班はメイン通りを離れ、一本北側の大通り国道218号線へと出る。国道沿いには何やらズタボロの食堂が・・
「三共食堂」
昭和の大衆食堂の見本例のような物件がいまだに現役で営業中。かつてソッチの営業で賑わった際はその客の胃袋を満たしていたに違いない。
さてこの岡富遊郭と言われるところだが、実は花街としての歴史もあったようで、芸者に関しては娼妓の約2倍の50名ほどのいたようだ。
ただ残念なことで、料亭の跡や置屋の跡なんかは残念ながら見つけることができなかった。それもそのはずで、敗戦がほぼ確定化していた1945年(昭和20年)6月29日午前1時頃けたたましいサイレン音が発報。延岡大空襲が始まる。
当初市民はいつもB-29の上空通過だと安易に考え市民は落ちついていたと言うが、次第に編隊は展開した。異変に気付いた市民の避難は少し遅れ気味だったという。
「旭化成延岡工場」
延岡市は旭化成。というくらい延岡に根付いた大工場なのだが、当時は日本窒素化学工業株式会社といい、この工場は当時世界的にも大規模な工場は主に人造絹糸やレーヨンのラインがあった。
また海軍の工場もあり、そこでは火薬や硝酸の軍用火薬の製造がおもに行われたようだ。まあ、後になって考えると空襲に合わない訳ないよな。
ちなみに、この空襲は3時間ほど行われ、死者約130人以上。焼失面積2平方キロメートルに及ぶことになる。地元民曰くこの辺の市街地はほぼ焼け野原だったという。
戦後直後は戦勝国気取りの三国人が土地の主人が居なくなった市街地の土地を占拠。後年玉入れの娯楽施設とかを建てているわけですわな。
あとは、ミヨーに焼肉やも多かったり・・
この裏探訪の熱心な読者なら、まあ、だいたい想像つきますよね。このよくある歴史の流れ。
「ビジネス 民宿 萬力」
その後、焼け野原になった遊郭だったが、戦後見ての通りに復活。延岡唯一の赤線になったわけですわ。
旭化成などの重工業地帯も、幹線道路の整備や環状線などで従来以上に復活を遂げ、東九州エリアで最大級の工業地帯となった。その後は見ての通り徐々に減退しており、旭化成の企業城下町もこの有様。元岡富遊郭の減退と大差ないオワコン気味の残念な町並みとなっていた。
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(2019)