全国裏探訪取材班は、幻の新幹線計画「成田新幹線」の遺構を見に来ている。成田空港開港前はこの辺には広大な牧場や田畑があった。この橋脚があるところも当時はなにもなかった。
京成電鉄が空港に接続した後も、成田新幹線は諦めることなく裁判も継続されたが、依然として建設は長い間進まずに凍結されていた。
「土屋西高架橋」
当時の設計は鉄建公団(日本鉄道建設公団)と書かれているな。着工は1978年(昭和53年)と書かれている。この1978は新東京国際空港が開港の年なのでかなり建設が遅れていたことがわかる。
竣工は3年後の1981年(昭和56年)なのでそこからは凍結され事実上の廃墟状態だったという。そして、最終的に1987年(昭和62年)に国鉄がJRに民営化。その際国鉄の基本計画が失効。完全に成田新幹線の事業が白紙になってしまう。
ただその失効時点で、成田空港への鉄道アクセスが京成電鉄だけが確定し、輸送力も逼迫。新規での鉄道路線の開設も急がれることになる。
そこで翌年、当時運輸大臣だった石原慎太郎大臣の号令のもと、JR東日本と京成電鉄に対し、成田空港近くのすでに完成済みの成田新幹線の路盤を使い、既存の在来線成田線から分岐する形で成田支線を敷設することになる。
その後1991年(平成3年)写真のようにかつて成田新幹線が走るはずだった高架の1層(2階)部分を使いJR成田線空港支線が開通する。それと同時に京成本線もターミナルをJRと共用し、東成田駅から事実上移転開業する。
「成田スカイアクセス線を走る2代目AE」
それからは長らく鉄道の進展を見せはしなかったが、裏で建設が行われていたものがある。それは京成成田空港線(成田スカイアクセス線)だ。この成田スカイアクセス線は成田新幹線のルートをざっくりトレースする形で2010年(平成22年)に開業した。
このスカイアクセス線はかつての成田空港の遺構を活用する形で建設され、JR成田線空港支線のさらに上の2層部分に単線で敷設されている。
「2層部分成田スカイアクセス線(左上)と1層部分のJR成田線空港支線(右下)」
「根木名川橋梁」
当時の成田新幹線の構想では東京-成田空港間を最高速度250km/h最短30分で結ぶ予定だったが、この成田スカイアクセス線が成田新幹線が通るとされた高架を私鉄最高速度の160km/h対応の新型スカイライナーが走っており、日暮里-成田空港を最短38分で結んでいる。これで当時の構想にかなり追いついた形だ。
根木名川橋梁には成田新幹線の遺構と思われる未使用の橋脚が今でも残っている。
平成になりようやく活用されたこの成田新幹線跡だが、実は他にもたくさんのスポットがあるという。こんな行政主導計画失敗の象徴をまた取材しなくてはいけませんね。
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(2019)