【総力取材】日本最大のちょんの間地帯、大阪五大新地の雄「飛田新地」をすっぱ抜く!全10P【2022年保存版】(2)

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全国裏探訪取材班は、かつて200軒を超える遊郭が立ち並んでいた「飛田遊郭跡」を探訪している。飛田“新地”になった現代の様子も見て行きたいのだが、まずは飛田“遊郭”時代のお話からしていこうと思う。

「飛田新地 案内図」

これが大体、2019年(令和元年)の飛田新地の様子だ。今でもものすごい数の料亭があるな。これはすごい。でこの中でもちゃんとした料亭なのは右下の鯛よし百番くらいか。現在そのほかの殆どの料亭はちょんの間という、いわゆる風俗店だ。

「料亭 悠」

そして取材班が今いるのは、大門通り西側料亭悠前。この妓楼もとても見応えがある。かなり立派だな。

「料亭 悠」

「悠」「春香」「吉原」

まずは簡単ではあるのだが、この“飛田”について簡単に歴史から学んでいこう。飛田遊郭の前身は難波新地乙部遊郭というもので当時は「難波新地」と呼ばれていたものが江戸時代からあった。まあ、東京でいうところの吉原遊郭みたいなもんだ。この難波新地の大体の場所は現在の南海難波駅の北側、ちょうどマルイとかあったあたりにあったという。での難波新地の移転の発端になったのは1912年(明治45年)1月16日にあった「ミナミの大火」だ。

このミナミの大火は、銭湯の煙突から火の粉が飛んだ。とか、妓楼もからの出火とか色々な説があるのだが、消失してしまったのは仕方がないのだが、再建は茨の道だったという。大正当時は“廃娼論”という遊郭廃止の運動があったそうで同じ難波には再建されることはなかった。

そして、1916年(大正5年)、白羽の矢がたったのは現在の飛田新地がある場所。当時は大阪府東成郡天王寺村大字天王寺東松田西松田と言ったらしい。周囲は田んぼと原っぱしかなかったようだ。そこの2万坪の敷地に、大阪府告示107号として貸座敷免許地として与えられた。当時の地図を見ると現在の新今宮駅らへんに“鳶田”という地名があったり・・真相はよくわからんが、現在の地で再建することになった。

妓楼が完全な形でたちならんだのはその2年後、1918年(大正7年)のこと飛田遊廓組合が設立され役200軒遊郭が軒を連ねることになった。すごいな。

それから時は流れ、転機が訪れたのは1945年(昭和20年)3月13日、大阪を深夜から未明にかけ大阪大空襲が開始される。サイパン、テニアン、グアムからB-29がそれぞれ飛来し、第3波にわけ空襲。主な目的地は港湾部や住宅密集地だったが、そのうちの一発が飛田遊廓の一角に落下。遊廓の半分くらいが消失してしまうことになる。

 

「御園楼跡」

空襲の影響なのか、いまでもそこの部分は、駐車場になっており妓楼は残っていない部分が多い。ちなみにここにかつてあったのが「御園楼」という遊廓。じつさこれ阿部定が居た遊郭なんですよね。

戦後は赤線地帯として再建、復興することになる。次回その所を解説し今の飛田をよく見て行こうとしようか。

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(2019)