全国裏探訪取材班は、佐賀県多久市に来ている。多久駅周辺にはすでに衰退してしまった商店街、人気のないスナック、怪しい間取りの商店があった。いよいよ唐津炭田と言われた「三菱古賀山炭鉱」のあとに迫っていく。
一旦駅周辺は一通り回ったので、炭鉱があったであろう場所へ向かうことにする。当時はこの唐津線から分岐して鉱山へ向かう鉄道がひかれていたようだ。
画面左側に道があるが、これは当時、石炭を運ぶ為に唐津線から分岐された線路の跡だったらしい。画面中央の白いマンションのような辺りが「多久駅」である。列車と鉱山は常に密接に関係している。現代ではほとんどは貨物か旅客用列車なのだが、もっぱらこういった石炭のような物資を運ぶ為に敷設された路線は全国を見ても数多い。もちろん目的を失えば赤字路線になる線路ばかりであるが。
ちょうどこの道だが、ここは線路の上であった。つまり、この道を辿れば炭鉱に着くことになる。では当時の写真で今の写真と照らしてみよう。
これは1969年頃の国土地理院の航空写真である。唐津線が横一線に走っているが、これから分岐して左下に膨らみながら落ちている線が炭鉱をつなぐ線路であり、ここに「三菱古賀山炭鉱」があった。
そしてこの左下の整列された点のようなものは炭鉱住宅だったようだ。1890年に古賀山炭鉱を三菱が譲り受け、最盛期従業員約1000名、最大出炭量年間53万トンを誇った。残念なことに主に艦船用に使われてきたここの石炭は艦船の技術の進歩とエネルギー革命が訪れ既に斜陽となっていた矢先、開発中の東部斜坑が集中豪雨により水没し、1968年1月閉山を迎えた。
そしてこれが現在の鉱山の姿である。ゴルフ場に建設会社の用地となっていて。ほとんど跡形もない状態。画像中心の屋根が大きいスレートのような斜めの屋根の建物にわずかながら、ホッパーが見える。ここから良質な石炭があると言われる杵島層から石炭が採掘され、その名を”キシマコール”と呼ばれ、艦船用途の石炭だったようだ。
少し近づいて見てみよう。おわかりいただけるだろうか。普通だと耐久年数を超えたコンクリート建築物の再利用は考えにくいのだが、ここでは積極的に再利用し現代でも姿をわずかながらに残している。ここから鉄道が多久駅に向かってつながっていた。つまりここに集積されて、唐津線と合流し運搬されてきたということ。
国土地理院の地図の通り、南側には炭鉱住宅の残骸が残されていた。鉱山の閉山後、住民はそのまま残りあるいは住居に住んだりでその住宅に改築を加えることで、区画と住居が結果的に維持されてきた非常に珍しいケース。
そのためか平屋ばかりだった家は2階建てになっていたり、まるっと家が変わっていたり、増改築をおこなったりではあるものの当時の面影を残していた。
当時は働き盛りの鉱夫とその家族がここに居住し、大いに賑わったのだろうか。今となってはその面影は薄い。しかし技術の進歩と自然災害によっての閉山とは誰も予想していなかった結末であろう。「三菱古賀山炭鉱」は決して楽ではなかった鉱山である。
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(2021)