全国裏探訪取材班は、千葉県船橋市にやってきた。今回ここへと来た理由は読者からのタレコミだった。某日読者から「都疎浜」って何?とのタレコミと共に取材依頼がやってきた。何でもそこはバラックのようなんですけど、裏探訪取材班にどうしても行ってほしいらしい。そうそう投げ銭10,000円もありがとうございます。まずは、この場を借りてお礼します。
「国道14号線 京葉道路」
さて今回はいきなりここからスタートすることにしよう。座標で言えば35°41’37.6″N 139°58’45.5″E。住所で言えば千葉県船橋市南本町44あたりだろうか。ここは京葉道路も通っているのが見て取れるように、船橋市でも結構南側のエリアだ。
「山谷水門」
ここは船橋市の沿岸部でこのように水路には水門や排水施設なんかがあったりする。船橋という名前の通り‟水”を連想させるまちなんでかつてはこの辺に三田浜塩田が広がっていた。もちろん港もあった。
「創価学会 船橋平和会館」
まぁ船橋でも臨港部なんでこの辺はそんな良い土地柄でもない。その証拠にこのように貧乏人の大将、創価学会の建物なんかもある。
で、さっそくほらほら、ごみがゴミを捨てに来る、ごみの回収袋なんかにも、ハングルとか言うんだっけ?朝鮮のおでん文字がしっかりと刻まれている。
まぁこの辺の公明党ポスター率の高いこと。小さな声を聴く力ですか。なかなかいいキャッチフレーズじゃないか。ホンマかは知らんけど。
そんな船橋でもプアマンが暮らす界隈なんですけど、ここに「都疎浜のバラック」と言われる場所があるのだという。てか都疎浜ってなんだよ・・
「船橋市南本町」
実はこの「都疎浜」というのは現在の船橋市南本町一帯の事を言うらしく、都疎浜の名前の由来は戦中戦後までさかのぼる。都疎浜は“都”(都内)から”疎”(疎開・引揚)してきた“浜”(塩田跡地)という意味らしい。なるほど、戦争中逃げてきた身分や、戦後の大陸からの引揚者や戦災者ということは身分はあまり高くなさそうだな。
勘のいい読者ならば、この辺は塩田で栄えてたんじゃないの?その塩田はどうなったの?と質問が飛んできそうだが、実はここの塩田は1917年(大正6年)の台風の津波で壊滅。それ以降は災害跡地というレッテルで人が住むはずもなかった。
ただ、それから月日が経ち、大東亜戦争(太平洋戦争)もいよいよ負け戦となり都内からの疎開先として元塩田のこの地が選ばれた。台風で被災した場所だったが当時背に腹に変えられない状況。そんな贅沢を言える時代でもなかった。なるほど。それが「都疎浜」のルーツか。
その後は日本は敗戦。戦災者や外地からの引揚者のためにこの場所が活用されることになる。まさに日本の黒歴史、DEEPスポットに違いない。
次回はこの、船橋のバラック「都疎浜」の様子をとくとご覧いただこう。
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(2020)