全国裏探訪取材班は、石川県宝達志水町にやってきた。今回の目的地は「モーゼの墓」といういかにも怪しい遺跡だ。さっそく前回に引き続いて現場を見て行きましょうかね。
「何故モーゼの墓と云われるのか?」という看板があったのでそれを読んでいこう。「古史古伝の代表作「竹内文献」のなかにモーゼは能登。おしみずへやって来ていると記されている。モーゼは「十戒」を刻んだメノウの石(十戒石)をもって日本に訪れ、当時の天皇にそれを献上した・・(略)」
いやいや、出ましたよここで重要ワード‟竹内文献”別名‟竹内文書”。これは、古代の文書を偽ったとされる悪名高い偽書であまりにも有名だ。元々日本には竹内家という公家があり、そこに養子に入ったと自称する竹内巨麿が戦前の1928年(昭和3年)にこの竹内文書を公開した。
「竹内巨麿(1875年? – 1965年)」
「安息の広場」
旧約聖書の中で描かれる、モーゼが導いたとされる「約束の地」と言うのは虐げられていたヘブライ人にとっては安息の地だった。そこから取ったのか登山道の中腹には安息の広場という広場もある。
「健康のみち(モーゼ森林浴コース)」
で、この「竹内文書」なのだが歴史学者の中では荒唐無稽のガセ書物としてあまりにも有名。このモーゼの様に、旧約聖書に出てくる人物が突然日本までやって来てこの宝達志水町で死んだという主張や、初代天皇とされる神武天皇は実は73代目の天皇で、初代神武天皇の前には「上古25代」や「不合朝」や「天神7代」という皇系があるとの主張。さらにその日本の繁栄を見習いイエスキリストや、ブッダまでもがの本に修行のために来日ていたという主張まである。
「三ッ子塚古墳群」「ミステリーヤード」
実際この丘陵地の様な地形には古墳時代中期の古墳群があり、計10基の古墳がある。これは確かなものなのですが、なぜかこの古墳群のなかのひときわ大きな2号墳がモーゼの墓と云われている。何時何処でウリジナルの如く歴史がすり替わったのだろうか。
それは、冒頭でもお話ししたさしたる産業のないこの宝達志水町の現状の為だった。昭和の好景気も終わり平成初期にはバブルが崩壊。その不況の波はこの田舎町にも押し寄せることにもなった。
そして、宝達山山麓に今でも残るこの三ツ子塚古墳群を地元行政が公園として整備する話が持ち上がった。その時、その引き金になったのが、あの悪名高い「ふるさと創生事業」だ。
ふるさと創生事業とはバブル真っただ中の1988年(昭和63年)に、全国の各自治体に地方交付税に付加される形でそれぞれ1億円が配られた事業だ。その資金を当てにしてこの公園整備が始まることになる。
さて、その公共工事はどのような経過をたどるのだろうか。次回その詳細を「モーゼの墓」とやらを見ながら解説していこう。
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(2020)