全国裏探訪取材班は、京都府舞鶴市には「朝代」、「加津良」、「竜宮」3つの遊廓があったのこの「竜宮遊郭」はもっとも海軍と関係の深かった遊里である。そんな当時のある日この遊郭である事件が起こったのだという。
さて、全国遊郭案内の続きを見ていこう。「事實此處の遊廓も明治三十四年鎮守府の開廳と共に人口も急激に殖え、遊廓の必要に迫られて設置されたものである處を見ても判らう、(続)」
「又軍縮の斷行されない前迄は貸座敷が四十九軒あり、娼妓は三百四五十人居たものが、軍縮の結果今日では貸座敷が二十九軒に減つて居り、娼妓等はたつた八十人に成つて終わつた。(続)」
こういう、元歓楽街のようなところでは稀に氷屋が生き残っていることもある。これも、テストに出ますからねw
「店は寫眞式で陰店は張つて無い。娼妓は時間制、又は通し花制で廻しは取らない。居稼ぎ制で送り込みもやらない。(続)」
これも遊廓の特徴でもあるのだが、道幅がこんな感じで不自然に急に狭くなる。そう。ここで大通りが終わりってこと。道幅が絞られることで外からも廓内部が覗きにくくなっている。
大通りを一通り見てきたので、今回は北側の裏の通りに入っていこう。
「客は軍人なのと、又一つには營業の挽回策としてか、一時間遊びが馬鹿に安く只の一圓である。但し一泊となれば六七圓は掛る。䑓の物は時下相場である。(続)」
ここで、文中に注目していただく点があったのはお分かりだろうか。そう、”又一つには營業の挽回策としてか”と書かれている。挽回という言葉は何かがネガティブな案件があった後にそれを取り返すために行われる事象だ。
一体当時何があったのだろうか。実はこの竜宮遊郭は一時期大繁盛していたのは前述のとおりだが、1918年(大正7年)に一大事件が起こる。それは繁盛をしていたということは競合する盛り場がなく、遊廓の値段がかなり高く設定されていたからだった。
これに対して、海軍側は値下げの要求をしていたらしいのだが、その要求を遊廓側は拒絶。ついに海軍側が遊廓の出入り口に柵を構築し遊郭を封鎖するという実力行使に出た。お得意の水兵の客を失った遊廓側は収入源を絶たれ、海軍側の勝利に終わったという。
もちろん、この全国遊廓案内にある”時間遊びが馬鹿に安く只の1円である”というのはこの事件の結果にあるに違いない。ちなみに全国遊郭案内が発刊された昭和5年当時の物価は公務員(小学校教員)で45-55円だったというので、1円と言うとだいたい5、6,000円ぐらいでは無いだろうか。確かに現在の信太山新地も驚く激安だな。
裏通りにはこんな感じでいかにも赤線時代と思しき物件も残って居る。
見方によってはカフェーと言ったところだろうか。しかし、この竜宮遊郭過去の痕跡は消したいのか”料理店”とか‟小料理”とかその辺の類の銘板は全くないな。ってこのバケツ何なんでしょうか・・
見た目はいかにも洋風なんですけど、こんな感じの窓枠の造りとかに関しては、いかにも和の職人が作ったような感じ。
玄関の上にはライトなんかも未だに健在。残念ながら当然もう光ることは二度とないんでしょうがね、、
さて、次回「竜宮遊郭」最終回。実は取材班の調査の結果、確固たる当時の証拠物件もいまだに存在したりしたんで、次回その辺をじっくりと見ていこうか。
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(2020)