全国裏探訪取材班は、京都府舞鶴市にやってきた。今回はその舞鶴の西舞鶴にある「朝代遊郭」にスポットを当てて行こうとおもう。地味な遊郭跡だが見どころは多かったりするので、さっそく徘徊していきましょうかね。
「旅館霞月」
前回は現役で旅館営業を続けられている、転業旅館と思しき旅館霞月を見てきた。さてここからまた歩いていきましょうかね。
その旅館霞月の道挟んで前にはこんな感じで、妓楼っぽい物件があったりもする。中には松が植えられてるし壁には飾り窓もあったりするし・・
この朝代遊郭は「全国遊郭案内」や「全国女性街ガイド」にも記載がない遊里なんですけど、貸座敷免許地と指定されたのは1888年(明治21年)の事。当時は舞鶴が海軍が日本海側の睨みを聞かせるべく軍港として整備され始めた時代だった。
1901年(明治34年)に舞鶴鎮守府が開庁するあたりからこの朝代遊郭も本格稼働したらしく、貸座敷38軒で芸妓娼妓計約200人ほどだったといわれている。
その後、時代は明治、大正、昭和と移り変わり、妓楼も少しづつ増え1940年(昭和15年)には貸座敷51軒にまで増加。日中戦争勃発や対米開戦を控え遊客数も数倍にまでなっていたんだそうだ。
この朝代遊郭は戦後海軍が解体されたあおりを受けつつも、未亡人や孤児の就職先にもなったのだという。終戦後は進駐軍向けの施設もあったらしく、地元民によると‟ハロー”は「ダンスホール」や「パンパン」と呼んでいたという。
こちらは、朝代遊郭エリアから西舞鶴中心部を見たところ。この道を何人の助平たちが往来したのだろうか。客の中には出征を控え、筆おろしなんかの習慣もあったらしいのだが。
さて、東側の通りは見てきたんで、朝代神社から北に延びる、西側の通りも見て行きましょうかね。
さて、次回も西舞鶴「朝代遊郭」の歴史を洗っていきましょうかね。この路地は景観の保護だろうか、地面は石畳の様な処理がされて居てなかなか当時の雰囲気が味わえるかも。それにしても、昭和感丸出しの風景だな。
うぉ~なかなか風流な物件も今に残しているな。これは当時のものなのかまでは断定できないのだが、明らかにソレっぽい物件がちらほら。
ほら、これなんかもそうじゃないですかね?完全に貸座敷っぽい造りなんですけどね。2階1階共にいい感じの縦格子が今に残って居る。
「さ和い」
この今となっては独特な日本語の書き方なんですけど、今はもう読むことすらできない二ホン人は多そう。これ小学生の時見たら怖い字体かもw
一階の玄関の様子はこんな感じ。近代化改装はされているようだが、壁に瓢箪の飾り窓があったり、やはり完全に貸座敷のそれっぽい。今は和食料理屋らしいな。せっかくいなんで立ち寄って飯でも、、っと思ったのだが準備中でした。残念。
さて、次回は西舞鶴「朝代遊郭」の最終話。決定的な証拠もあったので最後までご覧ください。
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(2020)