全国裏探訪取材班は、今回は京都に来ている。京都。その響きは世界の都市の中でもパリ・ニューヨーク並みに有名な日本の事なんですよね。雅、でも風流、歴史もあって豪華で旨いものもあって、芸術的な街なんですよね。そんなポジティブな世界有数のブランド都市なんですけど、そんな悠久の歴史とは裏腹にトンクと呼ばれるココや、穢多・非人の棲んでいたと呼ばれるココ、とか繁栄ぶりに比例するようにドギツイDEEPスポットも多いんですよね。今回の「五条楽園」もその一つだ。
今の五条楽園はこんな感じ。何の変哲もない京都の街角なんですけどここはかつて「お茶屋」という独自スタイルのいわゆる風俗街があった。
「五条楽園」(2005年撮影)
こちらが、その上の写真と同じ位置位で撮られた五条楽園の当時の様子だ。銭湯もあったり、その手前に橋があったり掲示板があったりもしているが「五条・楽園」という看板だけは現在現存しない。
五条楽園の入口の高瀬川に架かる橋の欄干と中央左の木の間には、当時あの特徴的な五条楽園看板があったんですけど今はこんな感じでコンクリートで埋められている。
この五条楽園は元々は”普通の”お茶屋。いわゆる花街的要素がある地区だった。近代では、五条橋下と言われている五条新地、六条新地、七条新地という複数の遊廓があった。
これらの遊廓は大正時代に合併され「七条新地」という名称で通っていた様だ。それから一部ではソッチ系の要素を持った芸妓・娼妓が混ざった花街を形成していくことになる。
京都の花街に於いて一番高級だったのは祇園なのだが、それに比べ客単価が最低のだったのがこの七条新地だった。その為、遊客数では一番栄えていた様だ。時は経ち戦後になるとたちまち赤線化していく。
そんな赤線も例に漏れず1958年(昭和33年)の売防法施行で遊郭の役目を終えることになるが、それはあくまで名目上で以降は「五条楽園」と呼ばれ娼妓メインの花街として平成まで存続する。
「五条大橋」
その「五条楽園」は「五條楽園」とも呼ばれており、大阪の飛田新地みたいな特殊な営業形態だった。なるほど、戦前も芸妓・娼妓が混ざった花街だっらしいが、五条楽園化した後もソッチ系の営業が行われたいたんだな。
「鴨川」
そんな、京都の娼妓の花街としては言わばサラブレット的な五条楽園だったんですけど、2010年(平成22年)10月に京都府警の売春防止法違反の取り締まりによって壊滅してしまう。1958年施行の売防法が半世紀も経過して検挙されてしまいその営業を終えた。
さて、そんな10年前に死んだ花街「五条楽園」なんですが、今はどうなっているんでしょうか。次回以降営業当時の写真も交えながら現在の五条楽園の物件や、当時のシステムを見て行きましょうかね。
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(2020・2005)