【豊臣秀頼】大坂の陣から生き延びた「豊臣秀頼」の墓を訪ねる。【生存説】(1)

 

全国裏探訪取材班は、ところで唐突にご質問なんですが、世間には“常識”と言うものがありますよね。例えば、入学試験。これはテストの点数と言う尺度で受験生をより分ける作業だ。点数が高かれば合格するし、不合格の受験生もいるだろう。その試験で不合格の受験生より点数が低かったら当然ながら合格にはならない。え?そんなの当たり前だろ?と言われるかもしれないが、世の中“裏”まで見て行くとそんなことも無いらしい。ほら、医学部の不正入試とか受験生が感知できないところで結果が歪曲されてることって無きにしも非ずという訳だ。

「谷山駅」

で、全く関係ないたとえ話みたいなことばっかりしていても仕方がない。今回取材班が訪れたのは、鹿児島市の谷山ってところ。

この鹿児島市内の片隅の町に、どうやらあの豊臣秀吉の後継ぎ「豊臣秀頼」の墓があるらしい。

「大阪城」

「谷山街道」

と、言うと少し歴史に詳しい読者からは「は?お前らまた何言ってんの?豊臣秀頼は大阪の陣で母の淀殿と一緒に自刃しただろ。いい加減なこと言うな。」と言われるかもしれん。

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「豊臣秀吉公」

確かにそうかもしれん。豊臣秀頼は豊臣秀吉が57歳の1593年(文禄2年)に大阪城で生まれた。秀吉にはその時に後継ぎの男子は居らず、既に甥の秀次に関白色を譲り自らは太閤と名乗っていた時期でもある。

「豊臣秀頼」〈Wikipediaより〉

いわば、豊臣秀頼は秀吉自身が待ちに待った待望の男子だったわけだ。特にその溺愛ぶりは半端ではなかったらしく、秀吉は伏見城に移り生まれながらに秀頼に大阪城を渡したり、秀頼が4歳で従四位そして6歳で従二位権中納言などと極端なまでに早い出世をしていくことになる。

さらに秀吉は秀頼の乳母に対しても「中納言様の気に召さぬ者は、こき殺しにするほどに叩きのめせ。」との書状もあったようだ。もちろん中納言様と言うのは秀頼の事だ。

そんな秀吉なのだが残念ながら1598年(慶長3年)に愛児秀頼を残して他界。その後、関ケ原の戦いによって徳川家康が覇権を握り将軍家を徳川家が獲得する。

 

秀吉が亡くなった後は五大老五奉行として秀頼を補佐していく豊臣政権が確立されていたのだが、徳川家が将軍家となったことにより、大阪に豊臣政権(豊臣家)、江戸に徳川政権(幕府)の東西二政権あったことになる。こうなれば徳川政権は難癖をつけ豊臣家を潰しに来る。それが大阪の陣なわけだ。

その大阪の陣では劣勢に見られた豊臣家だが、この時に於いても豊臣家は秀吉が残した金銀などの財産は徳川家を軽く凌ぐものだったという。いかに秀吉が将来のことを案じていたのかが分かる。その財産で、関ケ原で敗れた旧大名浪人衆などど雇い入れ大阪城へ参陣してくる。

参陣して来た諸将の中には、上田合戦、関ケ原の戦いの2度にわたり徳川軍を撃退した真田昌幸の次男真田信繁(真田幸村)も入っていた。

今回のレポの中ではこの真田幸村がキー人物になる。さて大坂の陣はどうなるのだろうか。次回に続く。

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(2020)