全国裏探訪取材班は、「蟹工船」の作者でもあり、日本のプロレタリア文学の代表作家「小林多喜二」。その中でも名作の「工場細胞」のモデルとなった“H・S工場”こと「北海製罐小樽工場第3倉庫」を見に来ている。完成から100年近く建つこの物件だが、今でも異様な威容を誇っている。
「北海製罐小樽工場第3倉庫」
「北海製罐株式会社」
前回同様、小林多喜二「工場細胞」を読みながら、この物件を見て行こうと思う。
「―市(まち)の人は「H・S工場」を「H・S王国」とか、「Yのフォード」と呼んでいる。―」
さすが、小樽の近代化を支えた事業所と言うだけあって当時の作中でも、王国とか米国の巨大企業フォードとかに形容されていたようだ。表向きはこの街の花形とされて居たのか。
「―Y駅のプラットフォームにある「近郊名所案内」には「H・S工場、――約十八町」と書かれている。」
さらには、当時の駅の名所案内にはこの事業所の存在が名所として誇らしげに書かれていたという。今では考えられんな。
更に抜粋して紹介していこう。
「圧倒的に多かった。朝鮮人がその三割をしめている。それで「労働者」と云えば、Yではそれ等を指していた。彼等はその殆んどが半自由労働者なので、どれも惨(みじ)めな生活をしていた。「H・S工場」の職工はそれで自分等が「労働者」であると云われるのを嫌った。――「H・S工場」に勤めていると云えば、それはそれだけで、近所への一つの「誇り」にさえなっていたのだ。」
基本的にこの工場細胞は日本の近代化による“産業合理化”のネガティブな部分をこの“H・S工場”の労働者の群像から扱った作品なのだが、当時小樽の街ではそんな労働者でさえ、半自由労働者の“労働者”(主に朝鮮人が多かった)からすれば優遇されており、それがH・S工場に勤める労働者の誇りとなっていたようだ。
「港町 4」
「―桟橋(さんばし)に近い道端に、林檎(りんご)や夏蜜柑(みかん)を積み重ねた売子が、人の足元をポカンと坐って見ていた。その「あぶれた」人足たちは「H・S工場」の職工達が鉄橋を渡ってくるのを見ていた。ありありと羨望の色が彼等の顔をゆがめていた。「H・S」の職工たちは「俺らはお前たちの仲間とは異(ちが)うんだぞ」という態度をオッぴらに出して、サッサと彼等の前を通り過ぎ―」
今でも桟橋に面する北海製罐小樽工場第3倉庫の隣には駅方面へと橋が架けられている。この橋は昔は鉄橋だったのだろうか。どうやらこの橋を渡って“H・S”の職工たちは帰路についていたのだろう。それを物売りが羨望の眼差しで見ていたわけか。
現在その現場はこんな感じ。まさか100年ほど前にそんな時代があったとは想像もできない。石造りの倉庫など当時の面影も一部残すが、当時の人々の幻影はもうかなり薄くなっている気がしてならない。
当時H・S工場の職工はそんな羨まれていたなら何も問題じゃないじゃないか!との声が聞こえてきそうなのだが、工場細胞はそんな単純な話ではない。次回に続きます・・
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(2020)