【能登半島】七尾の「常盤新地」とレトロな街並みを散歩する。【最大都市】(3)

全国裏探訪取材班は、石川県七尾市のレトロな風景を見ながら、七尾市「常盤町」と言うところまでやってきた。これが今回のレポの終着地点の「常盤新地」の跡だ。

「常盤新地」

この常盤新地の場所は通りの幅が急に広くなり、両側の出入り口には外界から目隠しをするために軽いクランク状になっているのが地図でも確認できると思う。

元々この辺りの地盤は明治時代初めに埋め立てられた文字通り“新”しい土“地”だ。そこから「常盤新地」に歴史は始まる。

「ニュー十番街」「スナック ときわ」

今でもその場所には、アヤシイ飲み屋街や、常盤新地を想像させる屋号のスナックがありますよ。なかなか寂れた歓楽街だな。

かつての情報をわかる範囲から参考にしていこう。1930年(昭和5年)発刊の全国遊郭案内によればこうある。「七尾町遊郭 は七尾線七尾驛で下車する。妓楼は二十八軒。」たったこれだけの表記だ。これはなかなかシンプルな表現。他の遊郭は結構しっかり取材している全国遊郭案内だが、石川県の小松遊郭、大聖寺遊郭、美川町遊郭、上金石町遊郭、松任町遊郭、輪島町遊郭、銀田町遊郭、宇出津町遊郭は1行で書かれておりかなり情報が少ない。もしかして筆者は取材してないのか・・

「上海」

こちらはニュー十番街のテナントの廊下部分。声をかけてきた90歳くらいの老人の話曰く、この常盤新地は赤線当時は人が多く向かいの店が見えないほどだったのだと言う。その老人は全く他人事のように話してくれたのだが、当時新地の様子を語ってくれたって言うことはやはりその老人も“遊び人”だったんでしょうかw

全国遊郭案内の情報が少なかったので、他の文献を見てみよう。1955年(昭和30年)発刊の「全国女性街ガイド」にはこのような記載がある「能登半島もここまでくると風情があり、赤線二十七軒に百二十六名。富山、石川の貧農出が多く、客にだまされ安い。」今思えば物凄い表現なわけだが、当時は憲法で表現の自由が施行されたばかりで、何でもアリだったんですかね。

常盤新地跡を巡っていると気になったのがこの物件。モロ赤線臭がプンプンする物件だったので、当時物かどうかお聞きしようと思ったのだが、もう家主は既にいないようだった。物件と共に亡くなってしまったのだろうか。

当時27軒、126名との記録があるのでもっと遺構が残っていてもいいのかもしれないがまぁこんなもんでしょう。北国なので雪が多く積もるのでそんな古い物件には厳しい条件だし、温暖なところのようのは行かないだろう。かくして、道路の形や、それっぽい物件やスナックでもあれば御の字なのかもしれん。

 

もしかするとこの「常盤新地」のレポを見て、何だこんなもんか。と言われるかもしれないが、こんなクラシック“ベンベ”が走っていたり、町もかなりレトロなんで写真好きなら町をスナップして歩いても充分楽しまると思う。

「三ツ矢ソース」

「宏陽堂」

「銀座町」

そうこう町歩きにハマっていると、夜になってしまっていた。取材班は北国の夜を楽しみ、ヤサに帰って行ったのだった。七尾。レトロ好きなら間違いない町だった。

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(2017)