全国裏探訪取材班は、宮崎市にある「八紘一宇の塔」に来ている。前回は“八紘一宇”という言葉が戦争遂行のスローガンということをお伝えしたが、元はと言うと、実はそんな好戦的な言葉ではないし由来が異なる。
それではこの塔を一周しながら詳細を見て行きましょうかね。
「八紘一宇」
まずこの八紘一宇という言葉は、日本書記第三巻に出てくる“八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ”という一文から来ているというのが専らだ。
この文脈は意訳すれば、“人々は全て平等なので、一つの家の家族のように仲良く。”という意味になるという。なので、本来の意味は戦争のスローガンとかとは全く違うものになる。
「紀元二千六百年」
日本で紀元とは、別名“皇紀”ともいい天皇の初代神武天皇が即位したのを元年とする日本独自の歴だ。ちなみに今よく使われたいる西暦というのはキリスト生誕からの歴。で、このキリスト歴+660年=皇紀だ。すなはちキリスト歴より日本の皇紀の方が歴史が深いんですよね。この石に刻まれる皇紀2600年といえば西暦に直すと1940年(昭和15年)。これは日中戦争真っ只中、日米開戦の1年前のことだ。
そんな完全に戦時体制の当時の日本において、この八紘一宇という意味が“天皇を中心に世界の皆が一つ屋根の下で!”のように、屈曲され戦争遂行のスローガンとしても使われたのはそれまた事実なわけだ。
そうじゃないか!やっぱり侵略戦争に使ってたんじゃないか!との声がまたまた左耳から聞こえてきそうですが、日本はこの八紘一宇の塔の建設より20年以上前、1919年(大正8年)世界大戦後のパリ講和会議の国際連盟員会において「人種的差別撤廃提案」を世界初で初めて提案した。
ともかく結果はどうであれ、日本は差別偏見蔓延る帝国主義の当時から全ての全世界の人間に対して基本駅人権を提唱し、八紘一宇の精神を世界に発信していたことは確かだ。決して戦争遂行のスローガンだけに使われていたわけではないわけだ。
だいたいの八紘一宇の成り立ちや意味がわかっていただいたかと思うので、この物件の様子を見て行こうか。塔正面の扉には神武天皇が美々津から出港される神話の場面が描かれている。
その扉の向こうは厳室と呼ばれる空洞の部屋となっており、その中には秩父宮が書いた八紘一宇の文字の原本が安置されているという。また日名子実三の作品が収められている。ただこの内部は非公開のようだ。
さて次回は、残りのこの八紘一宇の塔の細部を見て行きましょうかね。最後までお楽しみください。
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(2019)