全国裏探訪取材班は、巷では新型コロナウイルスでもちきりの中国「武漢市」に来ている。去年の話なのだが、新型肺炎コロナウイルスの第一報が耳に入る数か月前の話なので、裏探訪取材班が武漢入りしていた時は、既に感染者が居たのかもしれない。まぁ中国の事なんで情報をコントロールして外に出してなかっただけかもしれないし・・いい加減な国ですから・・
「新华大飯店」(ノボテル 武漢 新華)
取材班が到着したのは、武漢市内の三ツ星ホテルノボテル武漢だ。フランス系のシティホテルで、日本にもありますよね。
こんな噴水もあったりするくらいなんで、高級にカテゴライズされるホテルという訳だ。まぁ取材班からすれば、高級ホテルっていうか、中級ホテルだとおもうが。
中はこんな感じ。23㎡くらいだろうか。一般的なデスクに、ソファ、ダブルベッドが並ぶ、ちなみにバスルームはシャワー室がないタイプのシティホテル仕様だ。
ホテルを出ると大まかにこんな感じ。市街地と言った感じで、1階がテナントのような感じで、その上が住居になっていることが多い様だ。さて、早速武漢と日本の関係の近代史から見て行きましょうかね。これを見ると意外と日本との関係が深い事がお分かりいただけると思う。まぁ戦前はネガティブな関係性なのだが・・
「1938年(昭和13年)に鳥瞰図絵師金子常光が描いた武漢三鎮」
時は江戸時代末期、1856年(安政2年)中国大陸に進出したい西洋列強はアロー戦争(第二次アヘン戦争)において勝利。1858年(安政4年)の講和条約「天津条約」により漢口が開港され、イギリス、ドイツ、フランス、ロシア、日本が租界を開設した。これが武漢の近代化の始まりだ。
その後、1926年(大正15年)蒋介石率いる国民革命軍が武漢を攻略、武昌、漢口、漢陽を合併し“武漢”と改名した。1937年(昭和12年)日中戦争が開戦すると、中華民国蒋介石は首都の南京を放棄し重慶に遷都を開始することになる。同年12月日本軍は首都南京を占領。蒋介石は南京と重慶の間にある武漢に臨時首都を設立。
「1940年(昭和15年)当時の中国大陸による日本軍の勢力圏(ピンク色)」
その翌年、1938年(昭和13年)重慶へと退却する中華民国蒋介石を追撃する日本軍は、同年8月武漢三鎮の攻略する「武漢作戦」を開始する。日本側は大日本帝国陸軍中支那派遣軍畑俊六大将率いる9個師団35万。対する中国側は中華民国国民革命軍・ソ連空軍志願隊蒋介石委員長率いる110万。
「大日本帝国陸軍中支那派遣軍畑俊六大将」
武漢作戦は、日中戦争の一つの節目とも言われ、蒋介石を追撃するため内陸部武漢まで戦線を広げることになった。戦線を広げ過ぎた日本軍はこれ以降日中戦争の泥沼を招き終結への道筋がつかなくなってしまう。
「機関銃で抵抗する国民革命軍」
「武漢・廣東攻略記念寫眞帖 朝日新聞社發行」
蒋介石は首都南京が陥落した後も屈強な抵抗を続け、武漢作戦と同じく広東作戦という中国の一大要衝を攻略することになった。武漢作戦は開戦より2か月ほどで攻略、10月17日には蒋介石が武漢撤退をはじめ、日本軍は10月末には武漢を完全に制圧、以降占領した。
「日章旗は進む・萬歳!今ぞ武漢陥落」「武漢完全占領」
日本側35万に対し戦死者約8万、中国側110万に対し戦死者19万の犠牲で日本軍は武漢を占領したわけだが、日中戦争が大変なのはこれからだった。南京から武漢は高い山もなく進軍が出来たが、この武漢から重慶は高い山などの天然の要害が多々存在し日本軍を苦しめて行くことになる。ここで万歳をしている兵士はまだその事を知る由もないのだった。
以降日本軍は終戦まで武漢で足止めされ、戦後中華民国に復帰することになるのだが、それはまだ先の話だ。戦前の日本と武漢の関係はざっくりこんな感じだ。少し話がマニアックになってしまった・・さて次回は、戦後武漢との関係を街を徘徊しながら見て行きましょうかね。
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(2019)