全国裏探訪取材班は、前回から高知市に来ているのだが、高知の事情通曰く何やらとても変わった建築物があると言う事を耳にした。そんなことを聞いて黙って帰るわけにも行かないので、早速その物件を見に現地へと向かう。
県道44号線を東へと向かう。犬作推しのゴミ田電機やイオンなどが立ち並ぶ郊外ロードと言った感じだ。すると、ゴミ田電機の奥に何やら変わったマンションが姿を見せますね。
そう。何がともあれ、これが今回お目当の物件だ。確かにマンションと言われればマンションかもしれないが、一般的にみんなが思うマンションではない事は確かだ。
「沢田マンション」
そのマンションの名は沢田マンション。一見どこにでもあるネーミングなのだが、このマンションは夫婦2人で作り上げた手作りのマンションなのだという。
こちらが沢田マンションのメインの出入り口だ。住所で言えば、高知市薊野北町1丁目10あたりか。周囲は人通りは多いが、建築当初は周りには何も無かったという。
ちなみに、この沢田マンションの建築が始まったのは1971年(昭和46年)の事だ。建築主と施工主は沢田嘉農(さわだ かのう)という人物。1927年(昭和2年)生まれの人物だ。
沢田嘉農は幼少期からマンション(集合住宅)の建築と経営に憧れ、製材業に従事しながら日々構想を練っていたようである。
「薊野北町1丁目 10–3」
ただしその時代は戦前、戦中でマンションなんて一般人にそもそもそう言った概念がなく、周りからは異端に見られていたようだ。
兵役を一年経験した沢田嘉農だったが、戦後になると製材業や土建業を営み建売住宅などを販売していたようだ。この頃の経験が弾みとなり1971年に建設が開始される。
当初の建築構想は地上10階建、100戸のマンションを建設する。というのが目標だったようだが、現在は地上6階建、約60戸だという。
「沢田マンション建設のきっかけとなった発動機」
建築にあたり、沢田嘉農は20歳も歳の離れた妻と2人で建設を開始した。当時は行政に対し個人の為、建築許可は取らず着工。
行政側は建設に際し「強度については何も言わないが、金ができたら許可はとってくれ」と言われたようである。まあ、その大らかな時代に良くあるテキトーな対応が後々軋轢が生まれるわけだが、、
ちなみにこの時の妻というのは、沢田嘉農が32歳の時に13歳の中学生だった浦田裕江だった。家庭の都合で裕江は嘉農に引き取られ、その後、事実上の結婚生活を始めだようだ。しかし、妻のあまりの若さに誘拐の疑いを持たれたのは沢田マンションの裏歴史の一つでもある。ちなみに強制でも誘拐でもなく当時から、お互い良い関係だったという。
もう、マンションを建築を開始した夫婦2人から強烈なエピソードなのだが、建設し始めてからが言うまでもなくもっと大変だっらしい。
次回は建物の細部も見て行きましょうかね。
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(2019)