全国裏探訪取材班は、山形県遊佐町にある「石原莞爾」の霊廟に来ている。前回からお伝えしているが、石原莞爾と言えば満州事変を引き起こし満州国を建国した張本人であり、昭和の軍事史に燦然たる名を残している。一見好戦的に見える石原だが実はそんな単純なものではない。
「石原莞爾旧霊廟」
旧墓地だが今でもきっちりと手入れされているようだ。今日はあいにくの雪の為誰もいないが。
前回も軽く触れたが、1936年(昭和11年)の二・二六事件の際は、好戦派の反乱軍将校に銃を向けられながらも、すさまじい剣幕で怒鳴りつけ反乱軍の鎮圧に寄与した。
「南無妙法蓮華経」
1924年(大正12年)ドイツ駐在武官時代、妻のテイ子に向けた文中の筆跡を転写しているという。
その後1937年(昭和12年)からは日中戦争が勃発。当時石原は参謀本部の作戦部長だったが不拡大方針を貫くことになる。石原は日中戦争の泥沼化を予見しトラウトマン工作という和平工作も試みたが失敗。そこで陸軍同期の東條英機と対立、関東軍へ参謀副長へと左遷されてしまう。
満洲国首都新京(現在の吉林省長春)に着任した石原は、そこでも満州国の運営に関し東條英機と対立。日本の傀儡国家満洲国ではなく、自主独立した盟友として満州国を盛り上げていこうとする石原の思想が東條には理解できなかったようだ。この時石原は東條を徹底的に侮蔑しており「東條上等兵」などと糾弾していたようだ。
石原は1940年(昭和15年)、代表的著書の「世界最終戦論」という本を出版することになる。この著書には、主に戦闘隊形の沿革。例えば個々の戦いである点から散点、そこから線になり面になる。それからは高さが加わり立方体となる。と言うような白兵戦から現代の航空戦に至るまでの解説や、戦争形態の変化などを分かり易く書かれている。そして、最終的には超高性能な航空機や大量破壊兵器(核兵器)の登場などを予見している。なおこれは石原が20歳(1910年)頃の発想だという。この天才的頭脳は、陸軍の異端児と言われる所以だ。
その後は、東條の周到な根回しによって、1941年(昭和16年)3月、対米開戦の前に罷免、予備役に編入されてしまうことになる。現役を去った石原は、京都の立命館大学にて教鞭を執った。石原は国防学を軍人や軍人志望だけではなく、学生や広く国民に浸透させることを目的に講義をしていたようだ。もちろん予備役に編入されてからも、東條の監視は続き講義中の講堂にも特高警察や憲兵が常駐し、その圧力が強まり京都から去ることになる。この後東條は陸軍大臣から東條内閣を組閣、総理大臣となる。
東條内閣により対米開戦をし太平洋戦争がはじまると、石原は故郷の山形県へ隠居生活を送る。石原は太平洋戦争に関しても、勝てる見込みがない。と認知していたようである。そうこうしていると、戦況は悪化の一歩を辿りついに絶対国防圏であるマリアナ諸島サイパンが陥落。東條内閣は総退陣、失脚した。
晩年石原莞爾が過ごした雪が降る山形県遊佐町。
石原の予見通り、日本は悲惨な敗戦へとひた走ることになる。
次回は石原の新墓地を見て行こうとしよう。
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(2013)