【実は日本一の】かつて“天皇”と呼ばれた男の夢の跡「越前大仏」【大仏・五重塔】(4)

全国裏探訪取材班は、最終回の今回日本一の大仏を一代で築き上げた実業家「多田清」の来歴を写真を交え紹介していきたい。

「昭和六十二年五月建立 願主 多田清」

越前大仏正面の石碑にはこのようにしっかりと、多田清と掘られる。多田清(ただきよし)は1905年(明治38年)勝山市生まれ。酒屋の豪商として裕福に生まれるが幼少期に事業が失敗。一族もろとも大阪に夜逃げをすることになる。

少年期は大阪の大正区で育ち、丁稚として他人の釜の飯を食っていた。もともと時頭が良かった清は取引先から重要な仕事を任されたりするがなかなかうまくいかなかったと言う。

自らの事業を立ち上げる為、大阪港で沖中仕(荷揚げおろし)をしながら事業資金を稼ぎ、タクシー会社“相互タクシー”を設立する。

最初は1台2台と営業車を増やしていっていたようで、多田氏は業務効率を上げる為当時常識だった“流し”での営業を止め、営業所方式で事業を拡大していく。これが後の相互タクシーグループの礎となる。

高度経済成長だタクシー事業がうなぎ登りに急成長し、大阪で1000台を超える運用台数となり、当時“多田天皇”と呼ばれていた。そこでバブル絶頂期多田氏は“迷惑をかけた故郷に恩返しがしたい。”と日本一の大仏を計画する。

「設計に没頭する多田清氏」

多田氏は故郷の人々が遠く奈良まで大仏を見に行かなくても良いように。とか何とか言って故郷に日本一の大仏の建立を決定。総工費約400億円の空前絶後の贈り物をすることになる。

「越前大仏製作現場」

数年の月日をかけ越前大仏は完成する。が、すでにこの時、バブル崩壊の足音が聞こえかけていた。

 

開業後数年でバブルが完全崩壊。1991年(平成3年)多田氏はバブル崩壊と同時に、波乱万丈の壮絶な人生を終えることになる。

その後は言わんこっちゃないが、故郷に対し掛けたこの約400億円の施設も廃墟同然となり個人の思いとは真逆に誰も参拝するものは居らず、地元からは冷ややかな目で見られているという。

その400億円あればもっと実利が出ただろうに、、実にもったいなすぎる。これが男気ってやつなのか。で、実際の地元民が冷ややかなのは他でもないこの負の遺産の始末だ。2008年(平成20年)相互タクシーは240億8400万円の負債を抱え倒産。と同時にこれらの資産が公売にかけられるが落札者はおらず、最終的に福井県と勝山市は数十億円に上る滞納分を放棄。

越前大仏の裏の野原にはさらに「勝山城」という人口の城もあるのだが、こちらも多田氏建立。この勝山には、明治生まれの豪腕ワンマン経営者の夢の跡があった。

その夢の跡も結果的には、見事に故郷に恩を返すどころか、特大の迷惑をかける。という大どんでん返しの結果になってしまったのだが。

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(2017)