【近未来の】原爆スラム後の巨大団地「市営基町高層アパート」と物件内部も見に行く【コア】(1)

全国裏探訪取材班は、広島県広島市に来ている。何も考えず“広島”と聞くと、先ず思い浮かべるのはやはり“原爆”ではないだろうか。それくらい今の日本人は平和教育と称し敗戦国根性が埋め込まれている。

「原爆ドーム」

今でもたくさんの学生たちが、平和教育を主とした修学旅行に来ているな。戦後70年経ってもこの根性が脈々と続いているんだな。

「相生橋」

まそんな思想云々はいいとして、今回はその原爆によって生まれたといっても過言ではない「市営基町高層アパート」とその周りを見て行こうと思っている。

この相生橋は橋の中央で別の端が連結されており、上空から見るとその橋が“T”の字に見えるのでここを原爆投下の目標とされた。その爆心地近くに今回レポートする市営基町高層アパートがある。

今回の物件はそれなりに巨大なため、街中の俯瞰図にも表示がある。相生橋と三篠橋の間にある中央公園と書かれた北側にビル群がそれだ。

「輜重兵第五聨隊 隊跡 馬碑」

この広島の中心部には広島城があり、1873年(明治6年)城内には陸軍第5師団が置かれた。日清戦争が始まると山陽鉄道(現在の山陽本線)の西端はこの広島だったこともあり“広島大本営”が設置された。その後も西部総軍司令部をはじめ歩兵部隊、輜重部隊、砲兵部隊、陸軍病院、幼年学校を設置。軍都広島は当然格好の標的になることになる。

中央公園から見た市営基町高層アパート。ここは爆心地から数百m北に位置し、ここらあたりは原爆投下後は完全に灰燼に帰した。当然、家を失った日本人や郊外に疎開していた人々、戦後は大陸や外地からの引揚者がこの場所にバラックを建て始めることになる。

そのバラックは原爆をルーツとしていることもあり“原爆スラム”と呼ばれるようになった。悲しい負の歴史だがここまで来ると修学旅行生もいない。

「基町堤 支 26」「基町住2 2R1」

 

旧軍用地だったこの場所も戦後原爆スラムになり、この場所は「基町」という名になった。原爆スラムも「基町不良住宅街」と言う名前に改められた。

次回以降は、この市営基町高層アパートとその周りの施設を見て行きたいと思う。裏探訪的平和学習の始まりだ。よろしくお付き合い願おう。

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(2019)