全国裏探訪取材班は、大刀洗陸軍飛行場周辺にかつて点在した航空機「掩体壕」を訪れている。
大戦末期にはこのような掩体壕が飛行場近くに無数に作られていたようだが、戦後ほど撤去された。
このような掩体壕が無数に作られる背景となったのは、1944年(昭和20年)ついに、マリアナ諸島が米軍側の手に落ち絶対国防圏が崩壊。
サイパン島やテニアン島から米軍の戦略爆撃機B-29が全国に襲来することが想定された。それに伴い、内陸で比較的安全なこの大刀洗飛行場もそれらの空襲に対応すべく、1945年(昭和20年)初頭より、これら掩体壕が建設された。
見渡す限りの筑後平野。ここにたくさんの掩体壕があった。
本土決戦のため少しでも航空機を温存すべく建設された掩体壕だったが1945年(昭和20年)3月27日と31日によるB-29、74機により1000発以上の爆弾が投下され、大刀洗飛行場とその周辺の施設が次々に壊滅。さらに、その内の一発はその日修業式だった朝倉郡立立石国民学校の退避していた生徒数十人に直撃。24人が即死した。この事件は後年“頓田の森の悲劇”として語られている。軍事施設は仕方ないとして、民間はダメだろ。鬼畜米英だな。
少し話がズレてしまったが、そんな時代の代物が今でもこうして残っている。
現在では内部は苔が生えたり雨漏りがあったり、構造の脆弱な部分から劣化が進行している。
それもそのはずで、見ての通り戦時の急ごしらえでコンクリートを枠に流し込んだ為、砂利がしっかりと攪拌されずにムラだらけになっていることがわかる。
こっちは壁に波打ったような模様がついているな。これもおそらく、順にコンクリートを流し込んだが、流し込んだコンクリートをしっかり馴染まじていないか、途中でコンクリートが切れて後から時間を置いて流し込んだか。まあ、そんな所だろうな。
一部完成度が低いが、鉄筋コンクリートは鉄筋コンクリート。70年以上風雨に晒されているが木枠を外したあとが残り、まだ躯体はしっかりしている。
掩体壕内部中央にある梁の部分に気が張り付いているのが見える。これはおそらく、木枠の精度が悪くこの部分の木枠だけ外れず残ってしまったのだろう。大戦後期、残った木枠を外す余裕も無いくらい切羽詰まっていた状況がこの木から分かる。たかだか一枚の木板だが、紛れもなく歴史の証人だな。
観察の目を外側に移そう。外側は直接雨風が当たるためかなり劣化が進んでいる。
取材班は滑るコンクリートをなんとか登り、掩体壕屋根に登る。表面の細かいコンクリートは流れ出て、荒い砂利が目立つ。なんのアンカーかわからないが、ボルトも露出していた。
屋根の端には何かの施設の跡だろうか。コンクリブロックが見て取れる。
その近くにもバラバラのコンクリート。何の残骸なのかわからなかった。知ってる方はタレコミ願いたい所だ。
最後にこの高上の掩体壕は、将来この遺構を記念公園にする話だが数年前から進捗がないらしい。大刀洗記念館の零戦は無事、南の島から日本に戻り大切に保管されているが、この掩体壕は未だに手付かず。戦争遺構はこれだけでは無いが、是非ともこの掩体壕も遺産として整備し後世に記録してほしいものだ。全国裏探訪ではインターネット上に一足先に記録しておく。
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(2018)