全国裏探訪取材班は、三井三池炭鉱三川坑にて取材している。たった20年ほど前まで稼働していたので色濃く当時の雰囲気が残っている。
三川坑は最新の技術を導入しただけあって、戦前には三池炭鉱では最大の出炭量となる400万トン超を記録。戦後もその勢いはキープし続け、戦後復興にも一役買っていた。
「山ノ神神社」
第一斜坑と第二斜光の間に設けられた神社。三池炭鉱のどの坑口にも必ず山ノ神神社があった。
本殿はもちろん掘られている有明海に向かっている。
もちろんこの三川坑、出炭量は高くとも良い事だけではなかったようだ。
「コンプレッサー室」
1963年(昭和38年)11月9日「三井三池三川炭鉱炭塵爆発」事件が起こった。これは戦後最大の炭鉱・労働事故とした名高く、死者458人、一酸化炭素中毒患者839人を出した大惨事となった。
「コンプレッサー室前」今も現役かのように機材が放置されている。
事件当日午後3時12分、三川坑の第一斜坑坑口から1600m付近で石炭を満載したトロッコを稼働していた時、トロッコの連結が外れ坑道深部へと滑走、火花を出しながら滑走し暴走。最終的には坑道奥で、激突した弾みで巻き上げられた大量の炭塵に引火し大爆発。
コンクリートには無数の穴がある。これは新人が機械の練習をした跡と言う。
大爆発した事によって坑内には一酸化炭素が大量に充満。当時の三川坑第一斜坑は入気斜坑となっており海底の坑道に大量の一酸化炭素が送られてしまい被害が拡大してしまった。実際、爆発の直接的な死者は20人だが、一酸化炭素中毒死は400名ほどになってしまった。人命軽視も甚だしいな。
現在はネットがかぶされているが、かなり巨大な木造建築もある。これは圧巻だな。
事故から遅れること2時間後、三川鉱救護隊が到着した。遅い救援隊は事故後7時間が経過しており当時の保安、救護体制の脆弱さがうかがえる。よくそんな現場で作業をしていたな。生産性重視の時代だったのだろうな。
「第一巻揚室」これはトロッコを巻き上げるための施設で三川坑の後期ものだという。ちなみに粉塵爆発の際は建物ごと消し飛んだらしい。中の作業員はひとたまりもないだろうな。
「第一斜坑450KW巻揚機」長さは2800mとの記載がある。
一酸化炭素中毒で体の表面が無傷でも体内は深刻なダメージがあり、事故後から被害者とその遺族、家族による裁判が繰り広げられた。1998年(平成10年)に最高裁で判決は確定した。結果的にこの事故が遠因となり三井三池炭鉱は経理体力がなくなり閉山が早まる。法的に事故は解決したが今も一酸化炭素中毒の障害に苦しめられている患者がいるという。
壁に残る「電灯」
「第二巻揚室」これは人車を巻き揚げていた。
「15トン級B型5号電気機関車」アメリカジェネラルエレクトロニック製。国内に現存する電気機関車の中では最古級のものらしい。100年以上舞の代物でドアはなく窓から出入りする。(笑)
次回は炭鉱マンで賑わったであろう“盛り場”を見て行きたいと思う。
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(2018/)