全国裏探訪取材班はいわゆる隠れキリシタンを取材しているのだが、文字通り“隠れ”のため、現代においても探すのが難しい。気を抜いて普通に探すと全く見つけられない。
次の現場は、豊後大野市の三重町赤嶺。そこにキリシタン墓群があるらしい。
〔32°58’56.1″N 131°36’09.1″E〕
取材班は現場に到着。どうやら日本式の墓と併設されているようだ。
〔32°58’56.1″N 131°36’10.4″E〕
「下赤嶺キリシタン墓群」
えらい整然と並べられているな、と思って案内板を見ていると、どうやら1997年(平成9年)にこの墓地の敷地内に散在していた。しかし新たなる累代墓の建立によって散逸埋没の恐れがある為このように新たに整備された。
戦国時代の1569年(永禄12年)ギリエルメ修道士がここ豊後大野三重町に2か月滞在し、700名が洗礼を受けたとの記録がある。
玉砂利の上に整然と並べられた「薄型伏墓」。全体で88基が並べられる。
素材は、脆い阿蘇凝灰岩で薄型伏墓で、見えずらいかもしれないが右下に、縦横6㎝のギリシャ式十字架を薬研彫りしてある。完全なキリスト式だな。
殆どの墓石は当時ここ大分を統治していたキリシタン大名大友宗麟の時代のものと推察される。
中には、十字架が記されていないものもあったが、これは、1612年(慶長17年)のキリシタン禁教令で十字架が禁忌とされ、記されていない。のではなく“記せない”ということだったと推察される。まさに“隠れ”時代の代物だ。
何の意味があるのかは分からないが、側面に十字のようなものが記されたものもある。
何れにせよ、石が花崗岩のようなある程度強度のある石質ではなく、阿蘇の阿蘇溶結凝灰岩のため加工や彫刻はしやすかったのだろうが、とても脆く、長年の雨風で劣化が激しい。写真のように既に角がなくなり、丸くなってしまっているものも多数存在する。もしかしたら、キリシタンの墓ではなく、ほかの宗教(主に仏教系)の墓石かも知らないが・・・早急にデジタルスキャンした方がいいかもな。
そんな感じで、同じ型の伏墓が並ぶが、その中に禁教令前と後の墓石があり、キリシタンから“隠れ”キリシタンになった変遷が分かる重要な場所だということもわかった。黒歴史の証拠だな。
もっと調査をしたい気もするが、時間の都合で今日はここまで。次のスポットを探すこととする。
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(2018)