全国裏探訪取材班は松前線木古内駅を出発し廃線を辿りつつ、途中の渡島吉岡駅までやって来た。
ここから先、松前方面へ沿岸で行くには北海道の最南端に存在する白神岬を経由する必要があるため、松前線は吉岡峠に白神トンネルを通し短絡している。
この渡島吉岡以西は戦後順次延伸し1953年(昭和28年)渡島大沢駅 – 松前駅間が延伸開業し、木古内駅 – 松前駅間が全通し、福山線を松前線と改称した。
図右上の吉岡より、図左の大沢へ至る経路。白神岬を避けている。
〔41°24’10.5″N 140°12’09.6″E〕白神岬付近は山が外眼沿いまでせり出し、当時では鉄道を敷設するのが難しかった。松前線とほぼ並行する国道228号線は白神岬回りのルートを選択している。落石などがある為か、洞門となっている。
〔41°25’19.9″N 140°09’46.8″E〕「荒谷川橋梁」渡島吉岡駅-渡島大沢駅間の廃線跡。
〔41°25’31.6″N 140°09’15.8″E〕「櫃の下川橋梁」渡島大沢駅-及部駅間の廃線跡。
吉岡峠を越えて西岸に出る。再び海岸に出て松前方面へ行く。
〔41°25’35.4″N 140°08’56.6″E〕渡島大沢駅 – 及部駅間の廃線跡。しっかりコンクリートの路盤が残っている。
白神岬側の天狗山中腹より、北側松前方面を望む。
228号線櫃の下橋付近。渡島大沢駅 – 及部駅間の廃線跡も見える。手前に橋梁跡と奥には路盤が続いているのがわかる。
遠く松前城天守も見える。天守の左側が松前駅終点だ。
〔41°25’48.4″N 140°06’23.4″E〕松前駅-渡島大沢駅間の廃線跡。写真の閉塞されたトンネルは松前城の下を通る。
〔41°25’38.4″N 140°06’03.9″E〕「北海道最南端の町 松前駅」終点松前駅。
「観光案内所」案内所であるのになぜか何かを警戒しているのか・・赤いパトライトが点いている。案内人はもちろんいない(笑)
松前駅までたどり着いた裏探訪取材班は、他に松前線の遺構はないかと町をうろついてみる・・松前駅跡と松前城のちょうど中間あたりだろうか、専念寺という寺があった。
寺に入るやすぐに「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く 啄木」何気なく入った寺にいきなり“朝鮮!!??”と思った取材班だったが啄木の歌があった。そして近くには・・
「国鉄松前線敷設工事 殉難者 慰霊碑」がある。また内容が 「――1941~1945年まで当地域沿岸線の軍需物資運搬目的の国鉄松前線工事――(中略)――強制連行されてきた――衣食も満足に与えられず飢餓状態で過酷な――(中略)――チフスの伝染、その他病魔に犯され苦しみ倒れ、父母の名を叫び―――祖国に地を踏むことなく無念の死を――」となっています。
また、松前町史によると戦中の旧国鉄松前線建設工事には、強制連行されてきた朝鮮人や中国人が千人以上駆り出され、厳しい自然環境と過酷な労働で多くの犠牲者が出た。しかし、正確な数字は分らない。という事らしい。
しかし変ですよね、前編で紹介しましたが、1942年(戦中)に完成していたのは、途中の渡島吉岡までなはずですし、1944年8月の国民徴用令の改正までは外地の朝鮮人は徴用を免除されていたはずです。おそらく、それまで鉄道敷設に従事していたならば、それは“商売”で出稼ぎにやって来た朝鮮人であって強制連行なんてとんでもないですwしかも千人って根拠あんの?w
ちなみに1944年8月からの国民“徴用”令に関しては、内地の日本人はもっと前から兵役などに徴用(赤紙とか)されていましたからね。悪法でも法は法ですが、何も“徴用”を受けていたのは朝鮮人だけではありませんし(笑)
さらに言うならば、この石川啄木の歌も1910年(明治43年・松前線計画前)に日本に併合されて消滅した朝鮮国の悲哀を歌ったのであって、強制連行とか何の関係があるのかが分からない。故人啄木も、まさかこんな反日記念碑に使われると思ってもいなかっただろうw
この慰霊碑についてよく調べてみると、朝鮮総連函館支部の影がちらほら・・
半島人お得意の都合よく出稼ぎに来て、敗戦によって都合よく強制連行に変化し・・・いつものパターンですw
毎年慰霊祭があるようです(笑)
次回は松前駅から先の未成線に続きます。
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(2016)