全国裏探訪取材班は前編では京都府宇治市の「ウトロ」という朝鮮人の不法スラムを紹介してきた。
ささて、後半ではウトロのざっくりした歴史と数年前から始まったバラック解体後の様子をお伝えしたい。
「ウトロに愛を」
などと書かれた看板を目にすると、いかにもここの住人は
「強制連行」
などで連れてこられた感じをイメージするだろうが、これは真っ赤なウソ。前編でも書いたがあくまで「自主的」に飛行場建設のため住み込み(飯場)にやってきたのだ。
しかも、同じ不法占拠でも他の在日部落とは異なり、ここは民間会社の土地である。日本政府はじめ行政はほぼ関係ないと思っていい。
戦中の1945年7月米軍によって飛行場が爆撃。工場は操業停止となり、飛行場建設のための従事者は失職。終戦と同時に飛行場建設はなくなり、従事者はここに住み込む法的根拠がなくなる。戦後、GHQによって接収されたこの土地は、GHQの退去勧告によって大半の朝鮮人従事者は帰国したが、勧告を拒否し不当に残留し続け、GHQが手を付けられなかった場所がこの朝鮮人集落(以下ウトロ地区)となったのである。
1952年サンフランシスコ平和条約が結ばれ、ウトロ地区を含む土地がGHQの管轄下から日本国際航空工業に返還され、1962年には日産車体工機(現・日産車体)へと移管。そして1980年代不法占拠した住人が水道管の敷設を求め、日産車体と対立するが、日産車体は水道管の敷設を認めてしまう。
1952年サンフランシスコ平和条約が結ばれ、ウトロ地区を含む土地がGHQの管轄下から日本国際航空工業に返還され、1962年には日産車体工機(現・日産車体)へと移管。そして1980年代不法占拠した住人が水道管の敷設を求め、日産車体と対立するが、日産車体は水道管の敷設を認めてしまう。
1987年この難題を解決するため、日産車体は不法占拠する約80世帯のウトロ地区を、ウトロ地区の自治会長と称する平山桝夫こと
「許昌九(ホ・チャング)」
に3億円で売却。これで土地の所有権は朝鮮人に渡ったので、事態は収束。するかに見えた、が、許昌九はウトロ地区の土地を、自身が設立した
「西日本殖産」
という不動産会社に4億4500万円で転売。事態がややこしく・・そこからは疲れたので、Wikipediaでもどうぞお読みください。w
結局は民間同士の問題で、最終的には朝鮮人同士の争いになっているのですが、なぜか看板では他(主に行政)へ補償を求めています。
ウトロ地区の数々の看板を見ても結局はいつもの、謝罪と賠償を!です。w
さらにウトロ地区を見ていきましょう。
奥に見えるのが完成目前の、市営住宅1期棟。
数々のいざこざを繰り返し、不法占拠者はじめ建物(バラック)の補償を!と言っていたようだが、最終的にはウトロ町内会が建物の補償を求めないことで、行政が合意。行政はウトロ民間基金財団、韓国政府が支出したウトロ一般財団法人、西日本殖産より土地を借り受けることで市営住宅が建った。
概算事業費は市営住宅、道路敷設、給排水路、総計で約31億円。国の交付金は1/2の約15億円、府・市は1/4の約7億円をそれぞれ負担したようだ。
どさくさながらもバラックで数十年住み続けると、十数億円の建物が建ってしまうんですね。
公示されている。建物の各種掲示物です。よーくごらんください。
建設業の許可証です。よーくごらんください。
周辺の街並みです。ここは
「エルファ 2F南山城同胞生活綜合センター 1Fデイサービスエルファ分室・ハナマタン南京都」
です。
何の施設かはよくわかりませんが、表の駐車所にはごみ収集車が止まっています。
これらの写真を見てご自身の頭脳でお考え下さい。
すぐ近くには
「城南地域職業訓練センター・サンライン城南」
があります。これは立派な箱モノです。さて建設したのは・・・誰でしょうね?そこまで調べていませんが。お察しください・・・
近所を探索しながら京都方面に帰ります。一般的な住宅街ですがたまに豪邸も立っていますね。とても立派です。表札は・・・
ウトロ地区はこれからは再開発が加速するかもしれません。
この空気を味わいたい物好きは早めに訪れてみては・・
#宇治市 #マニアック #コリアン #これはひどい #バラック #貧民街 #不法占拠 #在日
(2017/10)