【潜伏キリシタン】が眠る「垣内キリシタン墓地」を調査する【弾圧】(1)

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全国裏探訪取材班は、長崎県長崎市にきている。ここには禁教期だった時代に気づかれた墓地が残っていると熱心な読者からの取材依頼があった。世界文化遺産になったキリシタンの痕跡を探るべく、多似良町「垣内キリシタン墓地」に足を踏み入れた。

実は裏探訪でも大分を初めとした「潜伏キリシタン」「隠れキリシタン」の墓地を数多く調査しているが、隠れキリシタン達はその土地によって風習や墓の作り方や隠れ方が異なる。

特にこの長崎はここから貿易をしていたこともあり、禁教期には読者もご存知の「踏み絵」をはじめとした手法を用いて弾圧が厳しかった地方だ。

当たり前だが、弾圧が厳しかったため、彼らの墓は隠れるようにして存在している。そう簡単に見つかっては意味がないし、墓を破壊される可能性とそれを含めた周辺地域への弾圧を恐れての行動だった。

当時の幕府や考え方、生活様式から少数派や多様な価値観を認められないこの禁教の最中で、隠れて信仰を行うことは容易いことではない。当時の彼らは「マリア様」や「イエス=キリスト」の像に対して祈りを捧げることが信仰の表れであった。

隠れキリシタンの話でよくある「マリア観音像」といったものや、洞窟に密かに造った礼拝堂などはバレることを恐れた当時の時代の怖さを表す貴重な証拠であることは間違いない。

長い階段を登っていくと、そこにひっそりと存在していた。なるほどここかぁ。

これが垣内キリシタン墓地である。おわかりいただけるだろうか・・・長崎という町の特性もあるが、かなり急な斜面に墓が作られており、外側からは木で覆われており、双眼鏡や人の目レベルでは何がなんだかわからない。

「垣内キリシタン墓地」

この墓も地元の人々にはよく知られている墓であったが、学術的に脚光を浴び始めたのはほんの10年ほど前である。とはいえ、彼ら隠れキリシタン達は隠れることに価値があり、それを長い間守り信仰を続けてきたため、表面的に何の墓なのかよくわからない。

 

外海から見てもただの岩の塊でしかない。確かにこれだけ岩がゴロゴロしていると、不自然な感じも否めないがもちろんこれは手入れをされている今だからわかることであり、当時は恐らく雑草などが生い茂っていたのではなかろうか。

もっと近寄ってみる。墓と我々は認識して調査しているので、これは墓だとなる。しかし、看板も花もなければ、ただの建物の基礎のような、岩がむき出しになっているだけの場所のような気もしないでもない。

幸いなことにここは定期的にどうやら訪れているようで、墓と認識できるすべてのものに湯呑みが置かれていた。大分の隠れキリシタン達とは違って、十字を切っているものなど何もない。

ましてやこんなに岩を山積みされては誰の墓なんかわかるわけない。実際にはこの岩達は当時のキリシタン達がもってきたものらしい。どれくらいの人が入っているのだろうか?それすらも何も記載がない。

 

とはいえ、墓をそれぞれ見ていくと同じ形になったものはどれ一つもなく、逆にこの岩達が誰の墓であるという目印になったのだろうか。仮にこれが墓だとバレたとしても、一体何の墓なのかは確かに検討がつかない。「垣内キリシタン墓地」なかなか奥が深そうだ。次回も見ていく。

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(2021)