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全国裏探訪取材班は、鹿児島市谷山地区にある「伝・豊臣秀頼の墓」に来ている。この墓は現実に存在するものなので議論の余地はないのだが、実際の真相は懐疑的に見えてしまう。そりゃ人々は大阪城で死んだと思ってるから無理もないんですが、この4回にわたるレポで秀頼は本当に生き延びたのか。秀頼の運命に関して真実は一つなのだろうが、完全な結果のない“シュレーディンガーの猫”状態なので、このレポでは真実を知ろうとする人々(観測者)の中の秀頼が生きている“確率”を上げて行こうとおもう。それがひいてはこの墓の正当性の証明にもなる。
先ずその中でも、いくら真田信繁が家康の旗印を倒すぐらい活躍したとしても、徳川軍が完全包囲する大阪城から抜けられることなんかあるのだろうか?そんな疑問の声なんかも聞こえてくる。
ただその反論に関しては簡単だ、裏探訪取材班の中には姫路出身の物がいるのだが、彼曰く中学生の時の自由研究で姫路城の抜け穴をテーマにしたらしい。その際、姫路城の抜け穴は33カ所あり現在では13カ所がいまだに生きているという。
なるほど、それならば、姫路城より巨大な縄張りの大阪城ならもっと多くの抜け道があってもおかしくはない。しかも姫路城は平和な時代の城。大阪城は戦国時代の城なのでもっと多くの抜け道があってもおかしくはないだろう。
しかも、その証拠として大坂の陣の混乱の最中に秀頼の正室であり、家康の孫である千姫も大阪城から脱出してきた。千姫は言わば人質なのでその千姫が誰にも気付かれず出てくるいう事はやはり秀頼も脱出できたという証拠にもなる。さらには、秀頼の庶子である国松もやはり大阪城から脱出している。という事で、夜な夜な脱出するとわからんよなぁ。

で、ここ鹿児島の薩摩側の資料にも秀頼に関する資料があるとかないとか。他にもその後、大分の日出藩に入って生きながらえた。とか。
という事で、やはりこの秀頼生存説と言うのは、それなりに根拠がある説に違いないと思われる。少なくとも完全な否定はできないのではないだろうか。
しかも、鹿児島での証拠もないわけではない。秀頼の墓の近所には「木之下」と言う地名も残っているという。谷山と言う前はここは木之下と呼ばれていた時代もあるとか。木下と言えば豊臣秀吉が出世前まで名乗っていた苗字の一つなのは言うまでもない。
「Riverside木之下」
「木下」
しかもこの地区には“木下”との字が入る苗字の表札が掲げられていたりしますね。これはやはり豊臣家の生き残りなんでしょうかね。否定はできない。
いずれにせよ大坂の陣から400年以上経過した今でも、このように丁重に祀られているのはなかなかすごい事だと思われる。薩摩(鹿児島県)では今でも、関ケ原の戦いで追い詰められた際の“島津の敵中突破”や明治維新の際の幕府への反骨心など徳川には散々煮え湯を飲まされてきた。
最終的に大坂の陣で豊臣方は事実上敗北してしまったが、薩摩は九州征伐の際に本領を安堵して取り立ててもらった恩が豊臣に対しては有ったのかもしれんな。そうでも無けれここまで遺構は残らないだろう。あ、あとここよりさらに南の頴娃町と言う所には真田幸村の墓もあるという。これはもう豊臣秀頼生存説はかなり色濃くなったのではないだろうか。
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(2020)