【豊臣秀頼】大坂の陣から生き延びた「豊臣秀頼」の墓を訪ねる。【生存説】(3)

 

全国裏探訪取材班は、鹿児島の副都心谷山に来ている。まぁ副都心と言えば聞こえはいいが、ただ市電の終点とかがあったりするだけの大したことは無い町なんですが・・・

そんな、片田舎の町にあの豊臣秀吉の息子「豊臣秀頼」の後継者の墓があるという。父親の秀吉の墓は、京都や高野山奥の院に墓があるのだが、その息子の墓はこんな住宅街なのか・・・

本当に俄かに信じがたいのだが、場所がよくわからなかったりもするので現地の探索には注意が必要。間違って不意に個人の私有地に侵入してしまうとお縄になってしまう。

秀頼の墓と言われる場所界隈をウロウロしても、なかなか墓と言うようなものは見つからない。墓地すらないし。なかば諦めかけていると、なにやら立て看板を発見。

ここなのか?!がっつり私有地っぽいところなのだがお墓を見たい旨を住人に伝えると。どうぞ~♪と快諾していただいたので中へと入っていく。

「伝・豊臣秀頼の墓」「大阪城が落城した時、豊臣秀頼は島津氏を頼って薩摩に落ちのびたといわれます。「秀頼の薩摩落ち」の伝説です。高さ3メートルのこの塔は、その秀頼の墓と伝えられていまが、下からは何も出なかったそうです。初代谷山氏の供養塔という説もあります。」

さて、早速近づいて現場を見て行きましょうかね。本当に見完全に民家の敷地だな。近づくには玄関前を通っていかなくてはならない。

「伝秀頼公由緒地」

まぁこんな陰謀論のような話題を紹介すると、真田信繁は影武者が大量に居たとしても秀頼は焼け落ちる大阪城で自刃したのは間違えないだろ?!との指摘を受かるかもしれない。それもそうなのだが、総大将の秀頼ともなれば真田信繁以上に影武者が居たとしてもおかしくはない。

 

しかも、その燃え落ちる大阪城内で秀頼の絶命の瞬間を見た人間は一人も居ないそうだ。もうその時点で充分怪しい。いやいや、1980年(昭和55年)に大阪城の発掘調査で頭蓋骨が見つかったしその体系から秀頼と類推されただろ!絶対それが秀頼だろ!?との指摘も受けそうだが、そもそもこの骨が発掘されたのは地表から3mの地点だ。

多少大阪城の歴史い詳しい読者ならお分かりだろうが、現在の大阪城は豊臣期の大阪城とは全く異なる。それは大坂の陣で豊臣家が事実上滅亡してから徳川が大阪城の豊臣感を消し去る為、全体的に7mほど盛土をして改築している。

そう、それはどういうことかと言うと、やはり3mと7mでは深さが違い過ぎるのでやはりここでもその骸骨が秀頼とは断定できないということになる。

本当の真実はどこにあるのだろうか。謎は尽きない。次回最終話では他の矛盾点も見て行きましょうかね。

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(2020)