【豊臣秀頼】大坂の陣から生き延びた「豊臣秀頼」の墓を訪ねる。【生存説】(2)

 

全国裏探訪取材班は、今回歴史の裏話をしていこうかと思っている。今回は豊臣秀頼の生存説。そう、豊臣秀頼と言えば大阪の陣で自刃するというのが表の通説なのだが、裏の伝説と言うのもあるという。

大阪の陣は、冬の陣は徳川方約20万に対し豊臣方約10万。到底勝ち目がない戦に見えるのだが徳川方はあくまで大名を寄せ集めた軍勢で、元々は豊臣恩顧の大名も居た。元主君の豊臣家を攻めるのだから相当気が重かったに違いない。

豊臣家は、文字通り背水の陣。寄り集まった旧大名や浪人衆は関ケ原の戦いで負け、それ以降煮え湯を飲まされていた者たちだ。相当徳川家には恨みを持っていたはずだ。記録によると相当士気が高かったらしい。

その証拠として、総大将徳川家康は秀忠の早期の総攻撃の提案はすぐに却下した。将軍家を立ち上げ10年以上経過し政権を盤石化していた家康でさえ総攻撃できないほど、未だに豊臣家の威光は失っていなかったという事だ。

その戦に当たって家康にとって頭痛の種がもうひとつ。上田合戦、第二次上田合戦(関ケ原の戦い)の2度にわたって敗退させられた真田家の存在だ。結果的に関ケ原の戦い本線では徳川方の勝利に終わったため、西軍に与した真田昌幸は高野山の麓の九度山に幽閉された。昌幸はその後、他界。後継の次男真田信繁(真田幸村)が大阪城へ入ったのだ。

真田が大阪城へ入ったという知らせを受け家康は狼狽え、昌幸は他界しているが「籠城したのは親(昌幸)か子(信繁)か?」と言うほだだっと言う。それほどまでに家康のトラウマになっていたに違いない。

その真田信繁は元々秀吉の馬周り衆で、秀吉には真田家とは別に知行が与えられ可愛がられていたようだ。そんな信繁は大阪城の南側に巨大な出丸、通称真田丸を構築したりと大坂冬の陣では徳川軍を講和に持ち込んだ。

「サナダヤマ」と今でも地名に残る。

講和に持ち込んだ冬の陣であったが、翌年夏の陣が始まる。講和で濠が埋められ籠城が出来ない豊臣方は野戦に打って出る。そのなかでも5月7日に行われた天王寺岡山合戦では、数に勝る徳川軍に対し信繁率いる軍勢は軽快に先鋒を出し抜き、家康秀忠家康の本陣へ突撃を敢行。

「真田西」

この真田らの突撃は家康の本陣を大混乱に陥れた。その混乱ぶりは凄まじく家康の馬印も倒され家康は行方不明に。家康自身は切腹!切腹!と口走り自刃も覚悟したほどだったという。こんなこともあり真田幸村こと信繁は日本一の兵(ツワモノ)と言われている。

 

ただ、家康を討つことはできず、残念ながら次第に多勢に̥無勢。劣勢となり信繁は四天王寺近くの安居神社で打ち取られた。と言うのが表の通説だ。しかし、当時は影武者が複数いることも当然の時代。幽閉明けの信繁の顔を知る者は少なく、実際それが信繁だったという確証はない。その証拠に信繁の首を挙げた西尾仁左衛門と言う者には恩賞が与えられなかったそうだ。

で、この信繁と秀頼と事と思しきわらべ歌が、秀頼の墓と共にこの鹿児島の谷山地区で語り継がれている。その歌は“花のようなる秀頼さまを 鬼のようなる真田がつれて 退きも退いたよ加護島へ”と言うものだ。なるほど現代語訳するとすれば、イケメンの秀頼を、屈強なボディガードの幸村が鹿児島へ連れ帰って退避してきた。ってことか。

さて、次回は実際秀頼の墓とされる現場の様子を見ながら考察していこう。

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(2020)