【陸軍の】“ならばペリーを連れてこい!”満州事変を画策し、原爆の誕生を予見した「石原莞爾」の新旧霊廟を見に行く。【異端児】(1)

 

全国裏探訪取材班は、全国どこでも出没するのだが、今回出没したのは山形県遊佐町。所さんのダーツ云々のように読者の方は、どこ?と思っただろうか。庄内平野とか鳥海山と言えば地理に詳しい読者ならご理解いただけよう。山形県出身の有名人と言えば「石原莞爾」と言う名前が出てくるのは相当な軍事マニアかと思う。

「国道7号線」

取材班は別件の取材で庄内空港に降り立ったが、早速国道7号線を北上。別件を忘れ今回のスポットへと足を運んだ。ちなみに今回新旧2つの霊廟を季節違いで足を運んだので、その様子をお伝えしよう。

「石原莞爾」

基本的に石原莞爾の話をするからには、まずどんな人物か。から話をするのが適当なのだろうが、この名前を聞いたことある軍事マニアの読者はそもそもそんな解説なんか必要ないだろうし、聞いても仕方ないので飛ばしていただくとして・・ただ知らない人の為にもしっかりと記載していこう。

「石原 莞爾(いしわら かんじ、1889年(明治22年)1月18日-1949年(昭和24年)8月15日)」

いし“は”ら、ではなく、いし“わ”らと読む。

石原莞爾は元々山形県鶴岡出身の陸軍軍人で、仙台陸軍地方幼年学校時代からトップの成績を収め続けエリートコースをひた走り、最終階級は陸軍中将。“戦争史大観”や“最終戦争論”という著書で有名で、とにかく頭がキレれたようだ。付け加え、本人は若い頃より日蓮主義の仏教思想を持っていた。

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石原莞爾の霊廟である墓は、場所でいえば「遊佐町菅里菅野」と言うところだ。ざっくり、道の駅鳥海から北側に国道345号線と国道7号線に分かれるYの字を国道7号線に200mほど行ったところに、国道を挟んで新旧それぞれの霊廟がある。

「石原莞爾先生の墓」

「桐谷家」

戦後、石原莞爾に土地と家を提供した東亜連盟の桐谷氏の私有地を進む。

石原莞爾として大きく知られているのは、朝鮮半島北側のいわゆる満州で起きた“満州事変”だろう。満州事変とは1931年(昭和6年)に起こった柳条湖事件から端を発した、日本軍による中華民国への武力紛争だ。そこまで聞くと、現代の左巻きや大陸系の人からは極右や侵略者!との大合唱が聞こえてきそうだが、そんな安直な思想ではない。

この紛争の結果、満州一帯は“満洲国”として独立することになる。建国理念としては、日本人・漢人・満洲人・蒙古人・朝鮮人による五族協和と王道楽土という精神だった。いわば人種の坩堝、東洋の合衆国を目指していたという。

 

満洲国が樹立したところまでは彼の思い通りに行ったようだが、そこから先がなかなかうまく進まなかったらしい。元々日本上層部は、この満州事変をうまくいくとは思っていなかった。なにせ相手は、23万人の張学良軍(中国軍)。それを石原莞爾、板垣征四郎らがたった1万人強の関東軍で日本の面積の3倍はある満州を占領したのだ。思いもよらない戦果に沸いた上層部は、五族協和の石原の意に反し満洲国を傀儡国に仕立て上げてしまう。

「石原莞爾旧霊廟」

石原自体は、日本の満蒙(満洲及びモンゴル)領有論より満蒙独立論と言う思想があったようなのだが、そうは歴史が運ばず、結局意に反してしまう。それどころか、その後1936年(昭和11年)の二・二六事件では好戦的な若手将校がクーデターを起こし、石原はその反乱軍を鎮圧。さらにその後1937年(昭和12年)の日中戦争には不拡大方針をとっている。一概には極右や侵略者と言えない面がある。

次回も墓の様子を見ながら、石原莞爾の一生をお伝えしよう。

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(2013)